ので、さて、どうコメントしようか、「心にナイフをしのばせて」

心にナイフをしのばせて
読んでいて、心がやるせなくなってくる。
まず、家庭を持つ身を照らして、ついつい自分自身に置き換えてしまう。なんてもうやった物勝ちなのではないのかと疑いたくなる。もし、我が身に降りかかってきたら、家族が巻き込まれたらいったいどうなってしまうのだろう。想像に耐えられない状況が目の前にあるのではないのだろうか。錯乱するのか、泣き崩れて日々を経るのか、いったいそこに待ちうけている奈落の光景がどのように現れるのか、そんな妄想に襲われて、この本を読むのには、少し距離を置きながら読んだのは事実だ。

読み終わってから数日が経ってから、頭を整理して考えたことは、あぁなんだったか、思い出せない...そう、この本の存在をしなければ、不幸な仕組みを知らなくて良かったということだ。しかし、知らない=無知でいるより、知識として、一つの参考情報としてためて置くことは、人が天真爛漫な子らに知らせることの術を得ることさえできれば、親の務めの一つを果たすことになるのではないか。

そういえば、ここ1年くらい気をつけていることがある。君子危うきに寄らずだ。日々の生活の中で、自分自身でできる危うき、つまりリスクは避けるようにしている。たとえば、通勤の中でおかしいと思ったら距離を置き、トラブルに巻き込まれないようにするとか、車の運転の際は、今まで以上に注意を払い、それを心の余裕と消化して安楽に運転するとか。
まだまだ、人として出来上がっていないので、ガッと暑くなるときもあるのだけれど、残念であるのだけれど、随分さめてきた自分がいることを自覚するのだ。それをオジサンと呼ぶなら、そう呼びなさい。10代だろうが、20代だろうが、一桁の子供らから見たら十分オジサンなのだ。オジサンであることを学んだのは、子らの友達から。ありがとう。