次に“繋ぐ”ためにチームでふりかえりをしよう


葬式のような反省会
アジャイルならスプリントの終わりに“ふりかえり”をする。“ふりかえり”とは、今してきた、こんなことをやったとか、あんなやり方をしたとか、自分のしてきたことを省みる振る舞いだ。アジャイルなら“ふりかえり”をしなさい、と言う。


“ふりかえり”は、良かったことを確認し、問題があったことは止め、挑戦することを言語化する。


ウォーターフォールの開発プロジェクトや組織のイベントもアジャイルと同じように“プロジェクト”なのに、意外と“ふりかえり”をしない。ふりかえりはしないけれど、“反省会”ならやるところもあるが稀なのではないかな。

“反省会”は、もう、文字面から言って、首を下げて「あれは拙かった」とか「誰某が協力的でなかった」とかマイナスイオンがタンマリ発生して、その会議室だけ一杯に重力が2倍にも3倍にも掛かりそうな、そんな雰囲気を醸してそうだ。
#ああ嫌だ。


“まるで葬式のような反省会”


そんなミーティングなら出たくない。あぁ、そうか、だから集まりが悪いわけだ。何らかしか、糾弾される可能性があるし、自分で喉元を過ぎ去った痛みに塩を塗らなければならないかもしれないのだから。

そう、それは何も生まない。


そんな葬式のようなミーティングは止めればいい。自分に何もフィードバックがない。


「ああすれば良かった。」より、「次は、こうしよう。」


と考える。“次は”に意思が入るのだ。ワタシの意思が。


言葉は受け止める
ワタシだって学ぶことばかり。だからケプトをする前には、ココロに思うことがある。人は、その主体者でないとき、感想を聞くといきなり評論家になる。酷いものだ。
#べき論で言い始めたら眉唾物。

とは言っても、貴重な意見も提言もある。場合によっては、褒めてくれることもある。探したいものは、それらに埋まっている意見だ。それを見つけたいと思って、全部聞く。いや、聞かせてもらうのだ。

なぜなら、やっている本人には、自分の目でしか見えないから。立場を変えて、見てみても、物事には限界があるし、同じチームのメンバだとベースは同じところにあるので、第三者としてのフレッシュな視点で見ることはハードルがある。なので、当の本人が気付かないところを教えを請う。

だから、全部聞く。批評も何もかも。その中で、特に“厳しい声”を聞きたい。無駄に歳を重ねると、言っても無駄と思うのか、そのくらい自分で察すれ、と思っているのかどうかわからないが、声としてご意見を頂くことが少なくなる。
#サビシイ。

ワタシが“厳しい意見”を言うとき、それを受けて欲しいと思う人にしか言わない。好感を持っているからこそ、“厳しい”意見を言う。その裏返しと取って聞かせていただく。


次に繋ぐために
“厳しい”言葉には、次に繋がる何かがあるものだ。ワタシはそう思っている。
少なくない言葉から、次に繋がる言葉を探す。何かを。


“厳しい言葉こそ、受け止めよう。”


繋ぐことは、ワタシ自身のためでもあるし、それは同じようにチームのためにもなる。だから、アジャイルでもふりかえりをするのだ。いや、どちらかというと、ワタシ個人より、チームが如何に良くなるか、を最優先で考えている。

仕事はチームプレイだ。人は一人ひとり、その調子に山谷があるものだから、だからこそ、チームでプレーしてお互いを差さえあう。なら、厳しい言葉は、一人よりチームで受け止められる環境を作り、フィードバックしたほうがよりよいだろう。


“チームでふりかえりをしよう。”