人が良すぎるエンジニアは本質が見抜けない


業務のしくみを検討する仕事にオブザーバーとして関わることがありまして。
そのタスクの中で、プロトタイプ的に、所謂、試行をしていたときに、そのしくみのアウトプットで作成される帳票の他に見覚えのない資料を見つけた。
#オブザーバーですからね、全ての経緯は知らないんですけど。


帳票は、事実の数字をメッシュでまとめる要求に基づいていて、サマライズの上、閾値との乖離を検証するために作成するのです。

で、その帳票の最後に見た記憶がないミニ帳票?が混ざっている。

(はて、あんな帳票あっただろうか。ちょっと聞いてみよう。)
「ねぇ、あの小ちゃいの何?」
「実績の帳票の他に、実績の数字に含まれていない、本当は集約されなければならないだろう、分散している数字を憶測でまとめたものです。」
「えっ?」


要求されていないモノを作ることに価値はあるのかなぁ

「憶測で作ったの?」
「そうですよ。」
「なんで?」
「本来、実績に含めていないとおかしい数字があるので。」
「その本来の実績に含まれてない数字は、それがアナタのいう実績に含まれない数字は、全部合計する対象なの。」
「だから推測ですよ。」

「経緯を知らないんだけど、最初からそれを作る予定だったのかな。」
「必要だろうと思って作ったんですけど。」
「と言うことは、推測で作っているのだろうから、その数字の信ぴょう性はないですよね。」
「そうですね。」
「その実績や実績に含まれない数字の責任部門に聞いたら正しい数字が拾えるんじゃないのかな。」


良かれと思ってもやる前に必要かどうか聞く方が本質に近づける
一見、良かれと思って実績を帳票にまとめることの他に、実績に含まれない数字を取りまとめているところが褒められそうなことのように見えるけれど、これはやっても意味がないことです。

実績は、実績の数字をまとめたものだから、まとめる人の恣意的な判断が入る余地は入りません。実績の数字は、事実の数字を根拠にしているから、信ぴょう性も取りまとめる意味もあるのです。

ところが、実績に含まれない数字のとりまとめは、本来そんな要求がない所で新規で帳票を作ること自体、“ムダ”なわけです。だれも必要としていないのだから。こちらも“ムダ”だと思っているから、“なぜ”、“どうして”と尋ねるわけです。


人が良すぎるからか、他人から良く思われたいのか八方美人でいたいのか分からないけれど、必要以上のことをするなんて、何を求められ、それ以上は要求されていないという依頼された要求の本質を見抜く力がないのではないか、と疑わずにはいられないのです。



あったら良いかもより余計なものを削ることを優先する
要求されていることを理解できているなら、あったら良いかも、なんて発想することは考えにくいことです。本質を見抜けていれば、根幹となる芯が見えているわけですから、nice to haveのような考え方はしないでしょう。

逆に言えば、あったら良いなと思うようだったら本質が見抜けていないのだ、と気づかないといけません。そこに至るには、繰り返し要求は何か、どうしてそのような要求になっているのかを考え抜かないと要求の本質にはたどり着けないでしょう。

そしてそれを如何に言語化して、本質のコンセプトを言葉として伝わるようにする過程には、あったら良いなというような存在が入り込むスペースはなくて、少しでも本質とは関係のない余計なものを削るかということを最優先にことを進めなければなりません。

それに至らないのであれば、やはり、本質が見抜けていないと言うことなのです。