失敗とは想定外結果に対して何もしないことでしかない


昨日の夜、珍しく酔っぱらいながら、−ここ数年酒を飲むのは控えているのでね−、モゾモゾとノートにプロジェクトがいかに失敗するのか書き散らしていたときに、いろいろ考えたのでそれをネタにしようかと。


プロジェクトが上手くいく、上手くいかないって、プロジェクトのゴールとそれを縛りもするし、守りもする前提をどう扱っているかだよなーって改めて思って。その大分は見積もり時、つまり契約までの間に決まってしまっているんだと。いくら優秀なプロジェクトマネージャをアサインしたとしても、杜撰な契約のフォローが出来る範囲には限界があるし、出来ないフォローはできないもんです。


もちろん、プロジェクトは見積もりから契約だけで本当に決まってしまうのか、ディスティニーなのかって言われれば、プロジェクトをキャリーするプロジェクトチーム、特にプロジェクトマネージャにかかるところが大きいです。それでもやっぱり何か望まない事象が起きるなら、その根本はどこにあるかを探って、対処療法ではなく、本格的な対処をしないとやるだけムダだと思っています。


仕事に成功も失敗もない
そうは言っても、見積もりから契約は、先の未来を手さぐりで“占う”なら、その占いが当たったとしても偶然でしかないのです。きちんと必要な情報を集め、聞くべき人に聞いて予測するのは当然のことであって、それ以外の方法で見積もりして、契約されてもそれを実行するプロジェクトマネージャにとっては迷惑でしかありません。


見積もりから契約のところでも、実際にプロジェクトをキャリーする実行フェーズでも、手探りをすることから仕事をはじめるのであって、その仕事の“正解”の形は誰ひとり知らないものです。なぜなら、何がゴールになるのかは顧客自体が知らないからです。


そう考えれば、どちらの場合の仕事においても仕事の“成功”という形はないわけで、それが成り立つなら“失敗”という形もないわけです。


予想を立ててそれに近づけるのが仕事
そうは言っても、期待する未来があるわけで、最終的なプロジェクトのゴールに近づけたならそれは“成功”だし、それとは懸け離れているならそれは結果的に“失敗”立ったということでしょう。


プロジェクトの仕事は他の仕事と同じように、小さなことの積み重ねです。一つひとつ予測して、それを具体的に現しながら組み立てていく。その具体的にするための予測をする、言い換えれば、予想を立ててそれに近づけることが仕事です。


なら、予測と違い結果となったとき、どのような行動をするかってことです。予測した結果にならないとき、なぜそのようになったのか、とその結果を導いた当人が結果を招いたふるまいをふりかえりをすることもなく放置するならその行為を含めて初めて“失敗”というのではないか。そう思えてなりません。


自分で考えないから失敗になる
仕事の結果を予測して、その予測に近づける行為を繰り返しながら期待する未来に寄り添うことが成功であって、期待する結果と違うのにそのままで放置するなら失敗だと言いました。そこにはどんな差異があるのかと考えると、その間には自らの意思で期待する結果を得られるように臨んだか、自分の頭を使いきってこれ以上できなかったと結果を知ったときの自分に言えるくらいしなければならないことをしたのか、でしょう。


自らの頭で考え、予測したのなら、そこにはそうしたい自分がいるのであって、それをしていないのなら他から与えられただけの仕事でしかない自分がいるのです。仕事に相対する自分は、与えられた思考の上に立つ自分なのか、それとも、自分の思考の上に成り立つ自分なのか、と。


自分で立てた予測なら、その結果が期待値と違うなら、そのリカバリをするのが考えた人の行動です。なぜなら、そうしたいと願い予測したのですから。やっぱり、仕事は与えられてするものはそこに意思がないから自ら失敗を呼び込んでいるほかないうことでしょう。


自分で予測して、期待する結果にならなくても、それを修正しながら近づけ続ける振る舞いそれこそが“成功”なのです。