読書会は発表する方が参加したときの満足感が高い理由


去年から読書会を続けています。主宰者なので出席者数ははてブと同じように初めのころはとても気になるものなのです。豆に広報しているのですが中々集まらなくて、ちょっと承認要求が満たされないなーって思っても、嫌がらせのように続けることが認知されることの一つだとも思って続けているのです。


チラホラと、参加者が増えてきたのはその継続した嫌がらせのような告知に意を決して足を運んでくれたのだと思うと、ちょっとウレシイです。実は参加するほうだって、参加しようと自分を奮い立たせる必要があるし、読書会故に、本も買わないといけないというハードルもあるからです。それを乗り越えて来てくれるのはとってもウレシイ。


発表する人は大変だけど共感が得られてウレシイ
読書会はよくある輪読で運営しています。だから、当番になったら先読みして感じたこと、疑問に思ったことなどをスライドなど何らかしかに纏めてこなければなりません。これも参加する人にはチョット負担かもしれません。


その面倒なスライドを作る手間を割いて出ても、言いたいことや教えて欲しいこと、益してや、参加して自分の意見を述べることで承認要求を満たすことは参加への見返りなのかも知れません。


自分が本を読んで日頃から感じていることを想いから文字にすることで頭を整理する節度を持って表現することまで考えれば、やっぱり発表する人の方がその読書会に対してロイヤリティが増すものでしょう。


読書はチートであると言うこと
実際の発表を眺めていると、その書籍のテーマにまつわる自分なりの経験がある人とない人では、そのスライドでの言い回しや話し方に随分と差が出てくるものなのです。これは良い悪いではなく、実体験がスライドを作るとき、話すときの背景になるので確からしさが確固たる自信となってあわられるからでしょう。


でも、読書をすることは実体験を追体験するだけに価値があるかといえば層ではないと思っています。人生は、人が関心を持って経験したいと思うには時間が少なすぎます。その少ない時間で経験するには何らかしかの手立てで擬似的に体験するほかないのです。


その体験の隙間である未体験を、読書で補えるのです。それを言い換えれば読書は経験のチートなのではないか。そう思えてなりません。


それでは、読書会でお待ちしております。