経験が自分のふるまいを制限する鉄の鎧にならないようにするために


ワタシの活動の一つにプロジェクトマネージャ向けのコミュニティ運営があって、そのコミュニティをとおして参加するプロジェクトマネージャやプロジェクトマネージャを目指すエンジニアがその場を自己育成として使って欲しいと思いながら運営しています。参加している人達にサーベイしてみると、思いのほか、どうやってプロジェクトマネージャとして振る舞えばいいのかとか、判断に困ったときの悩みを聞いて欲しいとか、人の悩みを聞いてみたいという意見が多く、少し驚いたものです。


そのコミュニティに出席してくれたり、そのサーベイに書き込んでくれた人だけの意見でその多さでしたから、出席が都合で叶わなかったり、サーベイにこたえる時間も惜しまれた人が潜在的にいるとするなら、同じように思っている人はもっと多いのかもしれません。とりわけ、悩みを共有したい、話したいというところが気になります。


自分で考えないと経験だけに頼ってしまう
プロジェクトマネージャの悩みは、プロジェクトマネージャとして如何に決断をして、采配を振るい、描くように物事を進めるかだと言えると思うのですが、いつも違うことが日々起きるから戸惑うことばかりなのが現実なのではないかと思うのです。その戸惑いも顔に出す暇もなく、一つ解決したら次の問題がクルクルと出てくるので自分ではもう少し考えたいにもかかわらず、やっつけ仕事になってしまっているのではないか。本当はもう少しうまく、スマートにやりたいのにって。


経験はその人のノウハウの塊なのでとても価値のあるものだし、その人が得てきた成功体験の価値を持つその人だけのベストプラクティスなのです。そのベストプラクティスも、無意識に経験を積んだままの山から都度取り出すようなことでは、タダの経験でしかなく、まだ本当の価値を取り出す前の原石でしかありません。


自分の中に持つノウハウも自分自身で整理して、洗練しなければただの石ころでしかなく、自分自身の行動もいつもおもちゃ箱をひっくり返すように記憶を探りながら振る舞うから、ある意味、考えて行動していないことと同じなのではないかと思います。それは、無秩序な経験でしかなく、それを変えようとしなければ、その人の行動はいつも経験でしか行動が出来なくなってしまい、未体験の事象に出会うたびに類似する経験を照らし合わせることもなく、望まない結果になだれ込んでしまうことが想像に難くないのです。


意思を持って行動しなければ裁量は持てない
プロジェクトマネージャとしても、普段の生活でも、意識しなければ自分の経験の範囲でしか行動しないものです。だから、意識的に行動して自分の成りたい姿にかわりたいとか思うわけです。それは、自分自身を行動させようとする意志の裁量をどれだけ持てるかであり、裁量があってこそ、自分が無意識に行動できると言えるのです。


意識をするということは、そう思う以前に何等か自分に対してインプットがあったに違いないのです。そのきっかけは自分自身でも周りの人の振る舞いでも構いませんが、その意識自体は自分で自分の思考を制御しなければ意識自体できないのではないかと思うのです。


意識をすることは、意識をした時点からの自分の気持ちを制御して、未体験であってもそれをやろうとする気持ちに変え、実際の行動に遷移させるという具体的な結果に結び付かせるための最初のステップに他ならないなぁと改めて認識するのです。


裁量の幅を増やすには形式知を追及する他ない
プロジェクトマネージャとして自分の行動様式を増やすためには、自分で考えられる裁量の幅を増やし、自分の行動の向きを制御できるようにならなければなりません。それは、自分の行動を追及することでもあるのです。


いつまでも自分の経験だけで自分の行動を制御しているなら、それは、自分の知っている、体験した経験の中でしか行動や決断ができないということの裏返しです。そのときの経験は、自分の経験したこと以外は知らないからそれを選択しようとしてもそもそもその判断すらできないし、それはまるで動きがぎこちない鉄の鎧でしないと言えるでしょう。


その鉄の鎧から解放されるためには自分が自分で考え、行動の裁量の幅を増やし、自分の思考を縛らないという方法を取らなければなりません。それは、知識体系に見るような形式知を無理矢理詰め込むことで“言葉を知っている”状態にすることから始めるのが一番とっつきやすいです。知らなければそれを調べることもできませんし、それを選択することもできません。そう考えれば、裁量の幅を増やすには形式知をまなび、自分自信の底上げを図るほかないのです。