コミュニケーションはエラー訂正が前提だよね


社会にでて、今なら「何でワタシが?」って言いたくなるような仕事に就かされて、そのときの仕事は一から十まで全部が初めてで、よく言えば毎日がワンダーワールドで、悪く言えばチンプンカンプンで。データ伝送の仕事をしていたときに、“CRCチェック”とか“巡回冗長検査”とか言葉だけ知りまして。はい。


自分で作ったのではなくて、メンテナンスでしたから、−あれ、最初のときはそうだったけれど、最後の方でやったのは新規だったから助けてもらいながらやったのか、ワタシ...−、まぁ、よく分からないまま言葉だけ覚えてるんですよ。


まぁ、ビットエラーが出たらパターンか何かで訂正しちゃうんですけど、これって人間関係と一緒だと。先方と意思疎通が取れていてもときどきお互いに間違っちゃうときがあるもので、そのときどうするかっていう話です。


間違っていたら「ごめんね!」と訂正しちゃう
随分前に、言ったことが状況から間違っていたようで、でもこっちは気づかずにいたら、「それ、ちゃんと謝らないといけないんじゃないの。」と言ってくれた人がいたので、「アレごめんなさい。」と丁寧にお詫びしたことがありまして。


そのとき、謝ることってそれまであまりなかったような気がしたからとても新鮮で、あと、“間違ったらさっさと謝っちゃえばいいや”って思ったんですね。ちょっとしたことでも、間違いに気づくとなんとなくココロに引っかかっていたりするとそれを気に掛ける分だけ、気持ちが落ち着かなくなるもんです。


それを謝っちゃうことで、一方的かもしれませんが自分に対するわだかまりを無くすことが出来るようなることを改めて知ることが出来て、あぁ、これっていいなぁ、と。


そもそもコミュニケーションは間違うものだとするところに立ってはじめよう
そもそも、コミュニケーションはデータ伝送と同じなので、両者がいて成り立つものだし、伝えるときは、片方向通信です。一度に双方が話すことは出来ても話している最中に受け止められないもの。


で、相手方に伝えるときに、伝える側は、自分のうちにある思いから言葉を紡いで言葉にするからその言葉を紡ぐときに相手が知らない話し手だけの前提に立って話してしまうんですね。データ通信ならフォーマットが決められているから決められたフォーマットや取り得る値以外はエラーになるんですが、人のコミュニケーションはフォーマット、ないもん。


それは人のコミュニケーションは、決められた手月にのっとらないから間違えるよっていうことでもあると思うんです。こっちも間違えるし、そっちも間違える。


間違ったら謝ってしまうという考え方のコストの払い方
話の内容は大したことがなくても、些細なことがココロの気がかりになることもあるんです。それは相手との人間関係であったり、その話の繊細さによるかもしれません。それが気掛かりになるかどうかも人それぞれだから一概に言えない。その気掛かりを悶々と抱え込むくらいなら、「ごめんねー」とか「ごみぃーん」とかさっさと謝ってしまったほうが、自分のココロに気掛かりを抱え込むコストを貼らなく定員だよという考え方もあるんじゃないかなって思うんですよ。


そういう考え方の方を双方でするなら、間違いは気楽に体でい出来るようになるし、日々のココロを平穏に保つのも得られやすいのではないかなーって思うんです。


ただ、それは無責任にコミュニケーションを取るわけではないですよ。意思伝達のフォーマットも大体の取り得る値も、コンテキストの前後で制限を掛けて値が暴れないようにコミュニケーションのふるまいを設計できるんですから。