やりたいことなんて次々出会えばいいのさ


就活であれがやりたいとか、仕事でそれをやりたいとか、そレが本当にやりたかったことかどうかなんて分かりやしないと思うんですけど。前にも書いたけれど、実際やってみないとそれをやる前に想像したような自分をワクワクさせるとかそういった満足させてくれるかどうかなんて誰も知ることが出来ないんじゃないのかな。だって、だれも預言者ではないから未来の自分なんて知りたくても知ることも出来ないんだから。


見つけないことと積極的に出会うことは違う
だからと言って、“やりたいこと”なんて見つける必要がないよ、とは思ったりしない。それは、恋人と一緒で、恋人はいないよりいた方が何倍もいい。その点、ワタシは恋人至上主義と言ってもいいかもしれない。と宣言しても、人生=恋人がいた年数ではなく、限りなくゼロに近い方の集合に含まれるのは内緒だ。それでも、恋人に出会って、子どもに恵まれるという体験を得られることは、恋人至上主義がなければ実現も出来ない。


話を戻そう。“やりたいこと”を見つけないことは、それはいろいろなものに流されると言うことではないだろうか。自分が自分の人生の主体者として生きているのかと少々心配になってしまう。自分の子どもがそう言った発言をしたら、とても心配だ。


想像してみよう、

「パパ、ボクは“やりたいこと”なんて自分から見つけたりしないよ。」


って言うんだ。「え゛?」としか反応しようがない。いやいや、それ今は中二病みたいなものでどこかでかぶれてきたのだろう?って思いたい。でも、“それをずっと青春時代もその後も続けて彼女がいないと寂しいよ。”って思うからなんか余計なモーションをしてしまいそうだ。


前髪の先に何かがきたら手を出すには
恋人に関わらず、“やりたいこと”を見つけなくてもいいなんていう考え方は、そういう考えもあるかもね、でも自分の前髪の先に何か楽しそうなことが落ちてきたら手を出してもいいかもね、ってぐらいにしておいて欲しいと思うんだ。


“やりたいこと”を絶対に見つけるんだ!は、それはそれで続かないから少しだけ力を抜こうよって言いたくなる。力を入れ続けることが、その人の通常運転であれば何もいわないけれど、普通の人はそれほど日々上がりまくってないだろうし。


でも、それでも自分の日本の足で立つように、自分の気持ちも少しは前髪に向けて目の前を通り過ぎようとしている人に関心を持って“やりたいこと”でも“恋人候補”でも出合おうとすることだけはしないと。前髪の先に少しだけ注意を払う。それだけ。



自分で“やりたいこと”に出会うしくみづくりをすることは必要なんだよ。その上で、無理に“やりたいこと”や“恋人”を見つける必要はないよ、と言うならワタシもパパとしてそっと見守ってあげるだろう。