レビューで指摘されることの“恥ずかしさ”と「なるほど!」と思う発見と


この歳になるとほとんどレビューイとしてレビューを受けたりする機会がほとんどなくなりました。プロジェクトで予定していなかった設計書書きがあったとしても(自分で言うのもアレですが)、明らかに待ちが出なければ“てにをは”などを含めて指摘されることがなくなったのは、それなりに設計書や規定などを「書き重ねてきた結果なのかなー?」なんて思ったりします。


それに反比例して組織の中での上申書などは書く機会が増えてきて、そっちはそれほど慣れていないというかそれを会議体に付議の責任者である役職者の意向が“とても”強く入るために赤ペン先生されて差し戻されることが良くあります。まぁ、役職者の都合があるのでしょう。こっちはやりたいことがやれればいいので事実と相違がなく共感できれば「そうですねー。」と修正に応じますの。


レビューで指摘されるのが嫌!
若いころは設計書なんて何をどう書いていいのかわからなかったので、書いてみて、見てもらって、また書いてみて、というループを苦も無くというか何も考えずにやってたのに、ある程度仕事ができるような“気”がしてくると、自分で書いた設計書のレビューを受けることがだんだん苦痛になってきたものです。


「あれはなんだったんだろう?」と思ったのは、レビュー対象のドキュメントのレビュー日を日程化していたり、朝会で進捗を聞いて「なんだ、進捗が良いならレビューをさっさとしちゃおう!」なんて言うものなら「イヤイヤ。」とか「マダマダ。」とか言って先送りしようとする人が居たからなんですね。で、そうしたいずれやらないといけないことを先送りしようとする人のドキュメントに限って出来が悪い。アレなんなんですかね?


で、自分の過去をふりかってみようと思ったわけです。同じようにレビューが嫌な時期があったような気がしたので。多分、人が違うので理由も違うんでしょうけどね。


ワタシの場合、指摘されるのは思慮不足なことが多かったのではないか、と思うんです。今、思い返せば。例えば、Aの機能仕様を書いているんだけどMECEの目線で見ると考慮されていない部分があるとか、機能単体では書いているけれど全体から観たときの位置づけがわからない、とか。


それって、やっぱりそのドキュメントで書かないといけないことを書いていない、いや、掛けていないことを自分なりに薄々と確信しているからそれを刺されるのが嫌だったんじゃないか、と。


いや、誰も悪くないですね。貰った時間が足らないならやる前に何を作るのか書くのか完了のための条件をハッキリさせてから作業の時間を自分なりに見積もってそれで作業日を見積もっていればそういったこともなかったのかもしれないけれど。でも、そうしても時間一杯掛けて書いたとしても手が足りないものなんだろうなーとも思うけれど。


自分の経験をふりかえれば幾つ歳を取ったとしても他の人にアウトプットを批評されることに積極的に向き合えないときは、自分でそれを作っておきながらそのアウトプットに「やり切った!」と思っていないからなんだな。気持ちのどこかに「まだ足らない。」と思っているから底をつかれると痛いので嫌がる行動にでるのだと。その嫌だという気持ちが“恥ずかしい”と遷移して先送りしようとするんだと。


この歳に成ればさすがにもっと優先したいことがある
「歳幾つなんだよ、遅いよ。」って言われそうですけど。さすがに40代になればそうしたことはなくなった、いや、正しくは少しは残っているのだろうけれど、それよりもっと大事な考え方と言うか優先したいことが出てきたから。


それは、そのドキュメントをさっさと仕上げてしまいたい。それを仕上げるための最速方法は何か、を第一優先にしているからなのかも。何をすればやりたいことが省電力でできるか。面倒でわかりにくい手続きがあったとして、でもそれに文句を言ってもその手続きはなくなるわけではないのだから、じゃあ、そのわかりにくい手続きの仕方を所轄の部門の担当に“具体的にこちらが申請したい内容で書きながら記入を教わる”方法で聴いてみたりするようになったんです。それって、書き終わって、その書き方でよいか確認できれば実質完成ですから。勿論、担当の人に「この書き方で問題ないんですね?」なんて聞いたりして念押しをしておくんです。そうすれば、記入のやり直しはないし、事前に申請したい内容で書き方を教わっているので担当者は事前にどんな申請が来るか知ることになるわけです。で、実際申請が来たら「先日のアレか。」ってスルッと申請が受け付けられる、と。


たまに設計書を書く手が足らなくてワタシがいろいろな圧力というか力関係というかまぁ組織の中でのご都合主義から設計書を書くことになっても今はやっぱり先に述べたようにさっさとそれをexitするための方策を考えるわけです。その考えは手続きのときと同じですがもう一つあって。


この歳になって設計書を書いてガッツリ見てくれる人がずいぶん少なくなったのでそういった機会をあえて作りたい、と。なんせ、歳を取ってある程度のポジションになると「あーだ。」「こーだ。」と言ってくれる人が少なくなるんです。それがとってもさみしいといより怖いんです。指摘されることが減るとだんだん退化していって突然どこかの場で指摘されると拒絶反応を起こしたりしちゃうと嫌だな、って。


大人なんだから、何時でもキチンと「聴こうよ。」と諭されればそうだし諭されなくてもそうだし。でも人の慣れ、特に退化したときは鈍くなるということだからそうも言っていられなくなるのではないか、と思うんです。だから、わざわざ指摘をされる場を機会を作ってせめて維持することをしようって。そして「なるほど!」って思えるようにしておこうって。