理解できないことこそ「後に」はしない


仕事も様々で、楽勝と気を抜いても後でいくらでもキャッチアップできる仕事もあれば、これは「ヤバイぞ」とメンタルに直接コンタクトしてくる仕事もありますよね。


えっ、そんな「ヤバイ」仕事なんてないですって。それはとても幸せか気づいていないかのどちらかだと思うんですが…。


その「ヤバイ」仕事も集中していないと見過ごしてしまうこともあって、なかなか危険なのです。


例えば、レビューをしていて、数字を追っているときにふと気を抜いてしまうと集中が切れてついつい流してしまうときに限って数字の不整合とか計算ミスとかあったりしますよね。資料をまとめたレビューイが検算していてくれればいいんですが、excelで計算していると関数を見ようと思わないと数字だけでは気付かないこともあるんですよねぇ。


割と資料の事前送付忘れや数字の算出根拠が複雑なやつに限って起きるんです。狙っていますよね、絶対に。


事前送付忘れは、手元にあればそれをプロジェターで映して貰えば確認できるのでオーケーなんです。もちろん、後で資料をもらって見直すこともあるので資料を確認するときのポインタは必要なのでメモを取っておくか、資料の理解の仕方を押さえておきます。


同じことをやると困るのが後者の算出根拠が複雑なやつです。資料が初見だと一段とそうバイアスが入るような気がします。そういうバイアスって単純に慣れていないために理解する前に認識するというプロセスが割り込んでくるからだと思うんですよ。


これって、資料が初見ためにコンテキストが低いという状況が作り出しているんだと思います。だから、コンテキストを合わせないといけないんですよね。コンテキストを理解するという行為に見合う対価を払わないと情報を作成したレビューイと同じ位置に立つことができなくなっちゃう。そのままじゃ意思疎通も何もできないのでレビューという目的が達成できなくなっちゃう。それは困ります。


だから、そのレビューイと情報を等価交換するために必要なコストを払わない、つまり、資料なり、資料の数字にたどり着くために資料そのものの情報を認識するためのコストをこちから持ち出しをしないということは、仕事の目的の手段である資料を理解するという行為を諦めるということになってしまうんです。


それはダメすよね。


こうした振る舞いが集中が切れそうなタイミングの一瞬で起きる。起きちゃうと後々面倒なことを引き起こすんですね。そのツケは、諦めた行為の結果ですから自分に降りかかってくるんですけど。


そのときに限って「あとで資料を追っていけばいいや」なんて軽く流してしまうんです。そこはがんばるところですよ>自分、なのに。


「ごめん、もう一度」「ちょっと聞き取りづらかったので」「なんか計算がおかしいと思うんだけど」とでも言って、再度説明して貰えばいいんですが面倒とか鈍感が勝ってしまう。


こんな経験を2回もすれば「これはやっちゃいけないアンチパターンだ」と気づきますね、さすがに。


だから、「???」「ヤバイ」パターンだと思ったら、次は、このまま見逃すとあとで「10倍面倒になって戻ってくるぞ」とに次被害の規模と面倒さを自分に向けるようにしています。後々面倒になることがわかっているなら、あとは聞き直すだけです。「ごめん、いまのところ理解できなかったのでもう一度」と。


で、もう一度説明をしてもらいながら「資料を作った人がどう考えて作り上げたのか」その思考に至ったしくみを理解します。考え方、しくみを理解することで、あとになって資料を読み直す必要になっても読み方がわかっているので理解し直すということが必要なくなるんです。


そう思うようになって仕事をしていると、割と流してあとで聞きまわっている人が多いと気付かされます。その場で聞きましょう。いま資料を理解できていなくてもいいやと思う自分とあとで資料を見直したときの自分は別人なんですから。