広く技術を学ぶか、深く技術を学ぶか


こんなツイートを見て、あー技術を学ぶことと一緒だなぁ、と。



でも、淀川長治氏の言葉はそこに到達した人の観点なんだよなぁとも思うわけです。わたしだってまだまだ知らないことが多いですから新しい技術にはすぐに関心を覚えるわけです。ただ、専門がありますからこの歳になって不得手なプログラミングに手を出そうとは思わないというか。そっちは早々にお蔵入りにさせたというのが正しいですけれど。


淀川氏の言葉の反対側、これから学ぼうとする人にとっては、どれを学べばいいのかそれ自体わからないという環境下に自らを置いているんですよね。で、どっちに行けばいいのか、広い技術の森の中を道を選びながら歩まなければならない。


その地点に到達した人にとっては、その選択はもう済んでいるわけです。後に残されているのは洗練するだけです。そしてさらにエンハンスする、と。だから何をすればいいか、何を選べば良いか判断基準が出来上がっているんですね。


そうだとわたしは考えるので、淀川氏の言葉はそうなんだけれど、そういうのは酷じゃないかなぁ、とも感じるんですね。1つの映画、システムエンジニアなら技術のポテンシャルも自分にフィットしているかもわからずに深掘りして良いのか、と。


と、ここまで考えを巡らして、あっと思ったことは、自己矛盾していることを言っているかもしれない、ということ。それは、システムエンジニアならまずは1つの軸となる技術領域を作ることが大切で、それを横に広げることを考え行動して欲しいと思っている自分がいるから。


さて、これは本当に矛盾していることをわたし自身が言っているのか、とも自分を疑ってみたりもします。さてさて。


システムエンジニアなら軸となる技術領域を持った方が良い。それを軸に広げるんだ。一方、学ぶ方としてはそれを選んで良いのかがわからない。もしかしたら選んだ技術はすぐに廃れてしまうかもしれない。そうしたリスクはどう判断したら良いのか。何を判断基準にして意思決定すればいいのか。


よく考えてみたら自己矛盾をしているのではないことに気づいたのです。


やっぱり、軸となる技術領域を持つことをしよう。ただ、はじめに選択する技術は、その技術で食べていくことを確保するためではないのだ、と。それは技術の習得の仕方を身につけることが目的なのだ、と。


そうなんですよね。技術は道具なんです。道具の使い方を知っていれば新しい道具が出てきたときに大体は察しがつくものです。道具ひとつ一つにクセという個性はありますけどね。


そう思い至ると、淀川氏の何度も見る映画とは、繰り返し技術を使うことで使い方を多面的に学べということなのではないかと。道具があって道具のガイドに沿って使うことを学ぶのではなくて、使いたい側の目的に合わせて道具を使えるようになろうと。そのためには何度も使い倒して細部を見る技術力をつけよう、と。