エンジニアだって、師は若い方がいいぞ


Kindleを買って積ん読だった天地明察を読んでいて天地明察の話自体が面白くてすいすい読んでいたら、ここのところに引っかかって。

「ぜひ弟子入りしたい」
はっきりそう言った。なんと伊藤まで首肯している。この二人の老人にとって研鑽のためなら三十余も年下の若者に頭を垂れることなど苦でも何でもないらし。
それどころか、
「だいたいにして若い師というのは実によろしい」
「ええ、ええ。教えの途中で、ぽっくり逝かれてしまうということがありませんから」

引用 天地明察 上 Kindle 位置No.2726

天地明察 上<天地明察> (角川文庫)
KADOKAWA / 角川書店 (2012-09-01)
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システムエンジニアはその職業をやめない限り、道具である方法論や技術を学び続けなければなりません。OJTなのかOFFJTなのか、研修なのか自己研鑽なのか、学び続けるアプローチはあるけれど、無から学ぶことよりは既知の形式知を学ぶか、暗黙知の経験知のどちらかを学ぶことになります。


学び手が若い内は年齢構成上から学ぶ対象は年上が多いですが、ある時点でそれが逆転するようになります。そのときに年上だとか年下だとかをもし気にしていたら学びは止まってしまうのですよねぇ。だって、引用にも掛かりますが学びの師が現役から退いてしまったり、果ては逝ってしまうのですから。


それでもまだ、書籍などの自己研鑽のような機会であれば、対面ではありませんからそうした自分の年齢を気にすることはないのですけれど。


ところが、対面となったときに驕ってしまうのか、それとも日頃の習慣からかついつい教えてあげる立場から抜け切れないままでいると上から目線で物を見てしまう状況に陥ってしまうんです。


それって、例えば新人が配属されてきたらやっぱり同じように一方的に教えるものだ、と暗黙に思い込む、いや、そう言うものだと刷り込まれているからなんだろうけれど、何も疑うこともなく接しているのではないかなぁ、と。


世代が違えば違うほど、育ってきた環境空間が違うんですよね。青春時代にPCがなかったとか、生まれたときには携帯電話があったとか。そうした違いは人に与える影響の要素が違うから自分の知らないことを知っているんですよね。当たり前なことですが。


ましてや経験値と経験知が違うので、それが日常となってしまった側に棲んでいるものとしてはそうでない新参者の気持ちで見ることはとても苦労するんですよ。


見方を変えると、配属された新人に業務を、技術を教えるのはお仕事なので教える側から学ぶ側へ情報の移転が生じますがあくまでも業務上の、ですから個人の学びの観点での情報の移転はゼロです。


一方、業務や技術を教えることのリアクションを新人から得られる分だけ教える側は、実は学ぶ側から得ているものがあるということができるんですね。それを認識して、意識して得られているかどうか。


それを理解していたら、引用の老人たちのように誰かまわずと謙虚に師と仰ごうとするんですよねぇ。


さてさて、今年も新人研修で学びをしよう。