エンジニアが作るスライドが3ページ目くらいで紛糾する現象に名前をつけたい

最近、国際会議向けの資料提供の依頼があってスライドを作ったのだが、どうにもうまくまとまらない。依頼元のレビューを受けてもピンとこないようだ。

ピンとこないならそのピンは何かを話してくれればいいものだが、それはうまく言えないらしい。仕方がないので、何度か修正しては眺め、こんな感じかと見てもらうとやはり違うという。

さて、何がずれているのか。

エンジニアに資料を作らせると、いつの間にかエンジニアが読むことを暗黙に前提とした資料になっていることが多い。資料作りを依頼した側として資料確認をすると、ああ、違うよ、とすぐにわかる。

それは読み手が誰かを知っているからだ。でも、資料を作るエンジニアはそれを知らないか、伝えても書いているうちに忘れてしまっている。

結果的に、読み手がずれてしまいレビューで違うと言われることになる。

この『読み手』は何度となく言われても忘れやすいもののようだ。

ペルソナで設定したユーザがどのような行動をするかを書き出そうというワークショップをしても直ぐにペルソナのユーザ視点に切り替えることが難しいのは、そのユーザの設定と自分が違うからだろう。話しているうちに、自然とエンジニア目線に横滑りしていく。

エンジニアに限らず、人は自分が経験してきたことをベースにしか物事を考えられない生き物なのだろう。でなければ、ペルソナのユーザにスパッと視点が切り替わっても良いはずだ。それができていないのは、もちろん、そういった視点を切り替える場数で得る経験もあるのかもしれないが、そう簡単にはいかないものなのだ。

話を戻して、国際会議向けのピンがずれているのは結局、こちらが読者に当たる会議出席者のペルソナを理解できていなかったことが原因であったことに気付いたわけだが、そうした読み手に当たるペルソナが違うとどう影響するかは試作した資料を並べて眺めるとペルソナを意識してスライドを作らなければ受け入れられないということがわかる。

端的な違いを言えば、こう表現できるかもしれない。

  1. ペルソナを間違えた資料は、エンジニア視点が抜けきれておらず情報過多で資料のメッセージがペルソナには理解できない
  2. ペルソナを意識した資料は、(ペルソナに合わせて)資料のメッセージが概念的でシンプルである

この差は大きい。

ここまで資料の読み手をペルソナとして書いてきたが、ペルソナがわかりにくければ、役職に変えても良い。例えば、エグゼクティブが読む資料に技術的な情報をこと細かく書いても意味がない。

なぜなら、エグゼクティブは役職に応じた経営判断をするのが仕事だからだ。であれば、経営判断して欲しいメッセージを伝えなければならない。そこに担当課長レベルの資料を出しても役職に応じた意思決定をできる状態ではないから、資料の隅々を見始め、結果的に資料の不出来を指摘されるのがオチである。

それも宿題がいっぱいついて。

資料の読み手を考え、メッセージとして何を伝えるのか、それを終始忘れてはいけない(戒め)。

 

 

 これは良本だと思う。