自分のためのPDCAは衰退を引き起こしている
エンジニアの仕事は業務であるから、決められた業務の進め方の枠があり、その枠の中で手順を踏むことになる。そうしなければ、業務を主管する部門が効率よく処理できないためである。さらに言えば、業務部門は外部の制約、例えば法規などで決められたとおりに手続きする必要を求められ、それに準ずるための結果的に、現場のエンジニアに同じような手順を踏むように求めることになる。
こうした手順は、最適であることはないため、定期的に見直したり、手順に不具合を見つければ、改善する。こうした改善の取り組みを定期的に行えば自然とPDCAが周りそうに思えるが、実際にはそんなことは起きないため、ISO9001やQCなどの手法をとりいれ、より、効率化的に業務の手続きを進められるように取り組む。
ただ、実態は、業務の不具合である事象の運用でカバーしているような対応を直すことをせず、PDCAを回せと指示されて、PDCAを回すことを目的に業務を変更しようとするから結果は改悪され、手続きが逆に増えてしまっているのが現状ではないだろうか。
業務の手続きもそうだし、組織で開発するサービスでも当てはまるが、そうした改善は本来、利用者に対価を支払ってでも使いたいと思わせるトレードオフを引き起こさなければ成り立たない。
新しいサービスが生まれてそれが使われるのは、従来、手作業で行なっていたことをサービス側で代行したり、手作業を省略してしまうことで利便性を得られるからである。
あとは、単純に視覚的に好き、だからである。
「機能性だけなく見た感じ」、「製品がもつストーリー性」、「個別機能よりも製品群全体での調和」、「論理ではなく共感」、「まじめさだけではなく遊び心」、「モノよりもモノをもつことの意義」といったコンセプトから「デザイン思考」は成り立っていると言われる。
引用 日本が世界から劣後する一因が「PDCA」のやり過ぎ 世界は「デザイン思考」にシフト(井上久男) - 個人 - Yahoo!ニュース
これは何も今になって、ではない。昔から、である。ただ、今より少し前までは、そうした考え方でものづくりをやっていたかと言えば、それは限定された範囲で行われただろう。
世界のビジネスマンは、MBAでロジカルシンキングなどを学んできたが、これはある程度「正解」が見えている領域で最適解を見出す分析的アプローチ。「PDCAサイクル思考」も同様のことが言える。これに対して「デザイン思考」とは決まった課題を解くのではなく、解くべき解を探す力を養うことに重点を置くものだ。時代の変化が速く、何が売れるかも分からない時代は、「潜在的なニーズ」を探し出すことの方が重要だろう。
技術がコモデティ化され、誰もが新しいサービスをみてすぐにコピーできるようになってしまった。従来の開発者側の発想である、機能を増やす、軽量化する、小さくすることは2番手を走っていれば真似ればいいだけになってしまった。
つまり、PDCAを回す必要は無くなってしまったようにも見える。実際には、2番手でコピーするだけなら、PDCAは不要そうだが、1番手の次のリリースをウォッチして、似て非なるサービスを出すためにサイクルを回していれば、実態はPDCAをまわしているようなものと捉えることもできる。
ただ、それでは限界があるわけだ。昭和の頃はマネ下と呼ばれた企業があった。
いずれにしろ、そのようなサービスを提供する際の視点はサービス提供者側からの視点でしかなく、それに基づいてPDCAを作っているからどうにも独りよがりになるのである。
そうしたやり方が溢れれば殲滅戦を引き起こし、消えていくだけである。そうした消耗だけのやり方を変えるのが視点を反対の利用者側に移して擬似的に利用者側が選ぶまでの仮説を立てて企画するようになっただけなのではないか、と思うのだが。