栄養ある情報を提供しなければ意図的にも教えてもらう側に回れない

たまに経験するのだが、エントリを書いている内容をいつの間にか面白くないと思いながら書いていることがある。この日もそうだった。途中で引用した記事があまりにもひどいのでそれを引っ張りながら書く意味はなんなのかと思った。

こうやって『下書きに保存』に放置され、みなさんの目に触れないままで終わる記事になれなかった何かが増えていく。

 

一方、こうしたエントリは読んでいても『(自分もそうだよ)』とか思いながら読む。

 

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自分の場合は、さらに変わっていて(と思っている)30代に入ってから世間でいう真面目(成果を出すことを意識的に始めた)に働くようになったので、そこから気概も違う。特にどうすれば所属する組織の中で自分の進みたいキャリア+当時の給与を増やせるかを考えつつ、好き勝手に仕事をし始めた。

今なら『独立すればいいじゃないか』と思う人もいるかもしれないが、何分にもエンジニアとして自分を高く売る商売道具を持っていなかった。だから、組織の中でどう高いお金を手に入れれるかを考え、実際にやってきた。

30代で当時持っていたのは見栄えのしない箸にも棒にも引っかからない、ひと山人月なんぼかで売られるエンジニアからプロジェクトをキャリーし、組織をリードし、今ではある領域では外での知り合いはかなり増えた。

意図的に若い人に教えてもらうことについては、以前のエントリのコミュニティ関連で述べたかもしれない。それはコアメンバとのコミュニケーションから得られるプラクティスや知見の価値がべらぼうに価値があるということについてだ。

コミュニティでの立場は、そのコミュニティを立ち上げたのとやりたいことを話して巻き込んでいる経緯から代表(責任をとるというロール)になっている。なっているが、フラットな関係である。お互い、尊敬し合えるのは相互に有益無益にかかわらず情報という名の栄養を回しあっているからだと思う。

自分の課題や疑問について会合の合間にネタのように振ると、一呼吸置いてからメンバが口火を切る。そこから様々なコメントがつき、自分の目線では視界に入ってないことを教えてもらう。いや、示唆に気づく、かもしれない。

こうしたコアメンバとの関係性をコミュニティの外でメンバを褒めるように話すことがある。コミュニティに関心を持つ人から尋ねられるとき、コミュニティの成果を話すことも1つだが、コアメンバから得られる価値(学び)を紹介したくなるのだ。

そう捉えると、30代より40代、40代より50代の方が学びが多くなった。さらに、ブログ以外にも文書を書く機会を継続して設けているので、インプットが今まで以上に必要になるという都合もある。

こうした活動も60代になり、組織の表札が取れたときを考えているからでもある。まあ、その前にHPが尽きるかもしれないのであまり難しく考えてはいないが。

 

 

 

映画『翔んで埼玉』公式ガイドブック

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