さん付けと愛称の距離感

経験に基づく感覚でしかないのだが、腹を割ってストレートにものを言い合える相手の呼び方があると思う。

進捗を気にしていたプロジェクトがあり、進捗がまずいとある意味正しくプロマネを飛び越えて、そのやばさ加減を知ったとき、フレンドリーに顔を出すようにして裏をざっくりと掴んで、プロマネとこれどうするつもりかと聞いた。

プロマネは自分の感覚で(全部ものが丸く収まって=次工程に必要なものは一揃えするまるでお花畑のような世界)目一杯工程のギリギリを示すから、現状からあり得ないだろう、五月雨で解決してもひと月前にはコア部分が定まらないと進められらないと指摘すると、ムキになって議論をし始める。

もともと愛称で呼んでいたから、過去にも意見がぶつかることはままあったのではあるが、愛称で呼び合うくらいに相手に思いをぶつけられる仲だったから、グサリと急所を指摘して、プロマネも取り繕うこともなく、素直に話を聞いてくれたのかもしれない。

これが苗字+さんだったらどうかと思うと同じような結論にたどり着けたかはイメージできない。互いに仮面を被り、お行儀よく、言葉を選んでいたかもしれない。

要は、相手のパーソナルスペースにどこまで入れて、相手に多少不快感を与え(それはそうだ、本人は上手くやろうとしているのだから)ながらも、耳を貸してくれなければ意味がない。

そこには相手に対してのリスペクトというか、形式張りすぎない個人の尊重がベースにある。あの人が言うからではなく、個人の意見はまず受け止める。その上で、違う意見を持ったら違うと言う。言う必要があれば。

これは仕事ばかりではなく、家庭でも同じで、特に夫婦の間でも同じかそれ以上なのだと思う。

自分はワイフを名前で呼ぶ。これは結婚する前からそうだったし、結婚してからも変えていないし、変えるつもりはない。いつまでも、愛称で呼ぶ。

子どもさんたちのご両親は、子どもさんと同じようにパパママと呼び合う風景をよく見かける。いや、ほぼ、そう呼んでいる。改めて考えると、パパママという呼び方には個人が無いように思えてる。子どもさんたちの父親、母親という意味合いとしか受け取れない。

愛称で呼ぶことは、個人であることを理解し、尊重している。そうすることで相手から相談をしてもらえる資格を作っているような気がするし、相談を聞いてもらえる対等な立場のベースになっているような気がする。

くだんのプロマネもワイフもそうなのだが、自分の考えのベースにそれぞれが役割を担っているだけのことで、立場は対等であると信じているからもしれない。

それでも馴れ合いにならないのは、役割をになっているというのあり、それのバリューを発揮していないとそれなりにグサリと切り込むからかもしれない。

ただ、ワイフ様にはそれはしない。