知の海を泳ぐ

時間が開けばPCの前に座るか、iPhoneのアプリを使って、何か自分の興味が満たされることがないか漂う。
自分で自分自身が興味を持つことを見つけ、探しだす。
受身ではなく、能動的に。

そう言えば、インターネットに触れるようになって約20年くらい経つ。
今に比べたら、とってもライトなユーザだったけれど。
まだ、その当時は、好奇心をそそるメディアは書籍か自分に関係する人たちだった。


書籍と伝承の時代
まだ、テレビは今よりはマシで、多少は教養番組もあったけれど、位置づけは書籍より若干早い流行の情報供給の位置づけだった。
狭い関係で生きていた中で、世の中は広いのだということを映像を持って教えてくれた。
ただ、テレビは一方通行であることと自分のペースで進めないことがストレスに感じ、段々と自分の中から重要度が下がっていった。

知を探す宛
少なからず、知を求めたいという欲求はあって、でも、やはり娯楽の領域からは抜けきれず、少ない財布の中から古本を探し、気に入ったミステリー作家を買い続けたり、用もないのに書店に行って毎日立ち読みをしていたこともあった。

書籍と人からの伝承
書籍はテレビと違い、自分のペースで読めることとビデオに録画なんて手間の掛かることをしなくても、ページを捲るだけで何度も行ったり来たりできることが自分にとてもあう。
読んでわかったつもりになっても、何かに気を取れると頭からこぼれて何度も読み直すことができるのがいい。
なんだか、一回に頭に入らないのかが馬鹿のように思えるが自分の頭なのだから、そんなものだ。
この頭と死ぬまで付き合うのだ。

大学生活でも人に自慢できるほど書籍は読んでいなかったが、なぜか履修した倫理の本は楽しく一気に読んでしまった。
その一瞬によって、人の興味の矛先は変わるもので、だからといって、更に一歩進んで倫理を追求したわけでもないところが今と当時とは違うんだなぁ、と想いふける。

当時、知を得るためにはもう一つの方法があって、経験者から話を聞く方法でこちらは、誰が何を知っているかを知らないと、聞きに行くこともできないし、聞いてみてどれだけ自分の興味のあることを話してくれるかもわからないところが面倒くささを助長した。
まぁ、相手だっていきなりこちらが聞きたいことを話してくれるわけではないし、信憑性だって、話す人のバイアスが100%係るからどれだけその人に惚れこむかによって、受取価値が変わってしまう。


インターネットが知を作る
今の時代、このブログも含めて今まで触れることは考えられなかった、隣にいても何をしているかわからない人の知をブログをとおして垣間見ることができるということが、インターネットの功績の一つだろう。
また、能動的に検索することで、自分の知を満たすためのデータを取り出し、自分で“何を取り、何を捨てるか”を判断できるという情報の取捨選択をより多く経験することができるという機会を作り出す。
機会が与えられ、機会を試し、自己の知を満たそうと能動的に動き出すことができる今の環境は、自分にとって、なんとも心が躍る時代なんだと思う。

なんとなく、テレビの前に座っていたかもしれない自分が、自分の知を得ようとモニターの前に座り検索し、検索したデータを絞り込み、情報に変換して、知に変えていく。
得た知から、さらに人とのつながりを求め、外に出て行く。
そんな知の海の泳ぐことが今の楽しみでもある。


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