「言われたとおりにやって。」は質問する力が無いからなのかもしれない

仕事をしていれば「なんでこんなになっているんだ?」と疑問に出くわすことは良くあることです。その疑問を作った(?)人が側にいるなら聞きたくなるのも心情です。まぁ、聞きますよね。「ねぇねぇ、どうしてコレこうなっているの?」って。それは自然なことだと思うんです。

プロジェクトの中で違和感を感じたときに、「なんでこうなっている?」と思う事はとても大切なことです。プロジェクトをチームでやっていたら必ず作業は分担するでしょうし、機能間のインタフェースを取るにしてもそのインタフェースの仕様がフィックスするまで疑問の連続になるものです。

ましてや、前工程をほかの人がアウトプットしたものを自分が次工程でインプットにするときなんて、「なんだよ、これ!」みたいな疑問やら何やらでしょう。逆に、まったく疑問を持たずそのままモノづくりをしてしまうエンジニアがいるとしたら、その工程を責任を持って担当するという本質的な姿勢に“疑問”を持たざる得ません。その意味では、疑問を質問してくる人に向かって「疑問なんて思わなくていいんだよ。黙ってそのままやれ!」なんて言うエンジニアがいるなら、そのエンジニアの品質何て大したことはないし、「品質の作り込みとコストをなんだと思っているんだ!」と小1時間くらい正座させて昏々と問い詰めたいですね。


疑問をそのまま質問する
「じゃあ何でも聞いちゃおう♡」とすればいいよね、と受け取ったらそれは“間違い”です。一から十まで教えてもらおう、何度でも聞いちゃおう、と質問する側がそう考えてはいけないです。
あれ、先の話と違いますね。何が違うのでしょうか。

例えば、基本設計(外部仕様)から詳細設計(内部設計)に実現仕様を設計するときに、インプットとなる基本設計の仕様に不整合や矛盾があるのではないかと疑問を持ったとき、その時点で何かおかしい、その基本設計の仕様はこうなんじゃないか、と頭の中で自分が詳細設計で描く予定の仮定の仕様を持っているものです。

自分が感じた疑問を自覚したとき、「その先まで何等かたどり着いてから疑問をぶつける」ことと「ただ、何故こうなっている?」という疑問もどちらも疑問ですが、それはまったく違うと思うのです。


その質問にどんな意思があるか
疑問をぶつけられる側が「質問するなよ」などと言う場面に遭遇したら、ハリセンで思いっきり張り倒すでしょう。でもね、「疑問があったら質問してね」、と言われても真に受けちゃいけないんじゃないかな、とも思うわけです。

上の続きで、基本設計の仕様はああだこうだと自分の頭で組み立て直してみるとどうも腑に落ちなかったり、自分の理解ではそのデザインに至った背景が読み取れないことがある。その腑に落ちないコトやデザインの背景が設計書に書きあわらすことが難しかったりするもので、どうしてもその設計書の世界を描いた人に聞かないとわからない。

この状況には、次工程として受け取ったエンジニアが疑問をぶつける最低限のことをしているから、疑問を問いかけてもその質問と期待する回答のレベルが合います。ところが、極端なことを言えば、次工程のエンジニアが何一つ自分の頭の中で前工程の仕様を再構成せずに質問をしてきたら、それはちょっと違うよ、と。その質問の頻度や教えてクレクレが酷かったら、そりゃ「質問なんかするな。だまってやっておけ。」ってなりますがな。

コミュニケーション力が問われるのは、双方で意思疎通を取るときに相手を見て相手のレベルに合わせて自分が伝えたいことをどれだけ伝えられるか、ということです。
そして、疑問を問うときだって同じなのではないか。工程の違いによるアウトプットに表現の違いは、その工程のアウトプットとしての要求事項であり、伝えたいこと、受け止めたいことの違いはあるにしても、一旦でもインタフェースすると言うことは相互にレベル合わせが必要であることを暗黙で求めているのではないか、ということを知らないといけないのだと思うのです。


自分で解釈して仮説を作り、それを確かめる
ただただ、質問をすることは、その置かれた状況が情報の収集ならそれでも良いのだと思うのです。それは疑問を持って質問をすることがその場で求められていることだからです。
プロジェクトの中の作業をしているときはどうなんだろうか。プロジェクトにメンバとして参画している時点でプロフェッショナルとして参画しているのではないか。そこで担当することの経験が少ないとしても、過去のプロジェクトの経験があってアサインされているのではないか。その経験を持っている、実力を認められているからこそ、経験の少ない領域にあえて置かれているのではないか。
当てにできるからということは、自分で考え自分で行動して、自分で答えを導き出すと期待されているのだと思うのです。その期待には、知らないことまですべて自分で答えを出して欲しいとまでは言わないし求めないけれど、与えられた情報と自分で探した情報から、自分の頭で解釈して仮説、そう、ストーリを構成した上でとる行動の一つとして、感じる疑問を問うことを期待されているのではないか。
疑問を質問するときに少し考えてからもう一度来てね、なんて言われることがあるなら、質問するレベルにたどり着いていないんだ、ちょっと勉強しておいで、ということなのだな、と思うのです。