沢山の失敗と次は失敗しないことを考えている人は怒らない

まぁるいと言っても見た目ではなくて、人柄の方ですが。若いころご多分に漏れず今よりはバカだったから自分自身が知っていることが正しくて、それ以外のことは突っかかっていたというか、沸点が低かったものです。あるとき、そんなワタシをリフレッシュコーナに連れて行って、ボソボソと諭してくれた先輩がいました。何て言ってくれたか、それ自体は忘れてしまったのですけれど多分、「みんなで仕事をしているんだからもう少し周りと合わせて...」のような意味合いのことを話してくれたのだと思うのです。


なぜか、そのときは素直に聞き入れることが出来たような気がしています。普段はそれほど耳を貸すことがなくてもあるタイミングで不思議と耳に入ることってありますよね。そんな体験でそのことをときどき思い出すのですね、不思議と。今思えば、その先輩のワタシに対する心配する気持ちがワタシなりに受け止められたのではないか、としんみりと思うんです。


失敗は次失敗しないための経験
一人ひとりの経験は、その経験した人の財産でそれはその経験が良いことでも悪いことでもその良し悪しは関係はないのです。その良し悪しに関わらずその人の経験の引き出しの中にしまっておいて、次同じようなことがあったら失敗しないために生かすためのもの=経験とするのです。


10代の中二病的な経験や失恋の経験は、大人になって振り返れば身も捩じり過ぎてバラバラに千切れてしまいそうなこともその暗黒な歴史があるから同じようなことをしないと過去の経験を生かすのであって、そう振り返れば若い10代のゾッとする経験もしていなければ大人になってからしなければならないことともいえるのです。


まぁ、大人の失恋は酒の肴なのでどんどんした方が良いですけど。


しかし、若い10代ですべてのことを経験出来るわけでないし仕事に就いてからでしか出来ない経験もあるわけで、そうした“大人になってからしか出来ない経験”は大人になってからにしか出来ないので仕方がないし、その経験がやっぱり10代のころの経験のように身も千切れそうなほどの恥ずかしさや不甲斐無さで激しく落ち込むことは10代のそれと同じであって、次に失敗しないための前座の失敗であったとしか思いようがないのです。


経験は人を解決に導く
失敗が次失敗しないための経験とするならそれはなぜその失敗が必要なのだろうか、と。


経験は失敗ばかりではなく成功もあるだろうけど試行錯誤と言う言葉あるように成功はとある振る舞いの帰結するゴールとするならば、自分自身が仮置きした終着点であるからこそ1つであって。その1つのゴールに辿り着く経路は様々であるなら多くの分岐路での選択は試行錯誤そのものだし、小さな失敗の積み重ねでもあるのです。


沢山の小さな失敗、一つの大きな成功の経験はそれを得た人にその経験から得られる経験値を与えてくれるのです。その経験値はその人の中に蓄えられる課題を解決することが出来るメソッドであって、会得した後に経験するであろう同じような課題に対する解決手段としてその人に依存する暗黙の形式知というプラクティスとして残るものです。


経験は人を怒らせない
沢山の小さな失敗、一つの大きな成功の経験をしてきた人はそれを引き出しにしまってあるでの、自分がしてきた経験をしていない人が未経験だから解決手段を持っていなくて怒ってしまっても、その経験をしていない時の自分に重ね合わせることが出来るから解決に導いてあげることが出来るんですね。


それは身も捩れるほどの経験をしてきているからこそ。それもその経験にたどり着くまでの試行錯誤というプラクティスがあるから、ああしたら、こうしたらと頭の中で未来を想像することが出来るし、そのこれから起きるだろう未来を想像するほどの時間と言う心の余裕を持っているから脊髄反射で起こるわけがないんです。「あ、それに悩んでいるんだ。なら、こうやり方もあるよ。キミはそういった見方をしているんだ。へぇ。」って。


経験は考えることが出来る時間と言う余裕というアドバンテージを与えてくれるんです。余裕があるから怒らないし、振る舞いも落ち着いているように見えるんです。だから、人柄がまぁるくみえるんですねぇ。