思考を豊かにするにはブログは有効なのだろうか


ゴールデンウィーク明けでメールが死ぬほど溜まっているのでとりあえず見なかったことにして。こうやって、毎日ブログを書くことは、ワタシにとってどういった影響を与えているんだろう。


今もこうして頭の中で考えながらキーボードをタイプしているのだけれど、頭の中で考えながらポチポチと文章をタイプできるようになったのは、それほど前からではなかったりすのだ。考えながらその思いつく様々なことを言葉に置き換えるその行為によって紡がれる言葉は一発でその思いを表現出来ることもあるけれど、一度言葉に置いた言葉がどうにもすわりが悪くて何度も行き来することもある方が実際は多いもので。


そういったときは、最後まで放置して、最後まで書けたら見直すことにしている。まぁ、それでやっぱり言葉のすわりが悪くて言葉を替えると構成まで直さないとおかしくなることもあって、それって二次被害というか、最初の構成が失敗したんだなって思いながら書き直すこともあるのはまだ発展途上の自分のレベルとして受けれるしかないのである。


思考は広げられるのか
思考の源って、それを思考する人の語彙に強く依存するのではないかな、って思うんですね。どれだけ言葉を知っているかでその思いを表現できる幅が変わるのだ、と。とは言っても、語彙をいくら知っているとしてもその人の性格が狭窄であれば、思い巡らす思いの幅が限られてしまうから語彙の多さに必ずしも左右されないのかもしれないかも。


ううん、やっぱり性格が影響するのは大きいだろうなぁ。思考するということは、頭の中で色々なケースを考えるということだから。狭窄でしかモノゴトを考えられないのであれば、いろいろなケースを考えることも出来ないだから。それはいつも同じパターンでしか思いの結論を導くことが出来ないのであって、そのパターンで処理できないことが起きたらフリーズしてしまうだろうし。


それでも人の性格と語彙の掛け算でその人のを広げられるとするなら、どこから手を付けた方がいいのだろう。


言葉を表現することの所作が思考へループする
人の性格は、先天性の性格と後天性の性格があって後天性の性格しか修正は効かない。先天性の性格が全く修正効かないわけではないけれど、直すことは生まれ持った性格の根幹だから難易度は高いだろうし、それを後天性の性格で修正を効かせることはできないこともないけれど、簡単ではないだろうと思う。簡単なら、金太郎飴のようにみんなポジティブな性格になっているだろうし。


そうするとやっぱり語彙を増やすしかなくてそれは自分の頭の中から自然と沸いてくるものではないのだから、他人の記す言葉を取り入れるしかない。それは本などの文字から得るしかなく、溢れるテキストの中から自分に合う言葉を探してくる他ないのだと思う。


なら、そうして自分の頭の中に溜め込めばいいのかというと、知っていることとそれを使えることは違うのであるから溜め込むだけではダメだろう。頭の中に溜め込んだ言葉を自分の思いに即して表現しなければ。自分の言葉として外に出すことで初めて自分の表現したい思いになっているかどうかが判別できるのであって、モヤモヤしたはっきりとした形がないところではそれは確かな思考にはなっていないのではないだろうから。


モヤモヤした思いを自分の思いとして具体的な言葉として外界に表すことではじめて確かな思考として認識できるのであるから、やはり形として見える文字に表現する行為が必要な行いであって、その所作を繰り返すループで鍛えるには、ブログは意外と使えるなぁと思う。