扱いは対等に、対応は配慮して


社会人になって、比較的若い時期の職場に車椅子のエンジニアとしばらく一緒に仕事をする機会が合ったことを思い出した。そのエンジニアさんは、若いときの病気がきっかけで車椅子生活になったと教えてくれた。


それまで身の回りの生活の中で車椅子の人が居なかったので、ワタシの内心は正直どう対応してよいのか戸惑っていたに違いない。


それでも人は毎日顔を突き合わせていればその光景が日常になるもので、数日もすれば何も気にしなくなって目に入る風景がワタシの日常となった。


車椅子に座る理由はその人それぞれだろうけれど、そのエンジニアさんにも理由が合って、日常の中で車椅子に座っているだけで、普通に歩ける人ととは違う行動があるようだ。そんなこともそれまで経験していなかったから、初めて知った。


「(ガタン!がタン!)」
「(音のするほうを見て)」
「あーあの音?エンジニアさんの足ね、○○反射でときどきあーなるんだよ。」
「そうなんだ。」


○○反射の○○はなんだか忘れてしまったけれど、足がときどきつって机にぶつかるらしい。ワタシより先に仕事をするようになった周りのメンバは“それも”日常になっていて、知らないワタシに気にしなくていいよって教えてくれた。当のワタシもそうなんだ、で。


そのエンジニアさんはとっても頑張り屋さんで技術力も合って、多分、ワタシの何倍も働いていたに違いない。そのくらいだった。


技術力も合って、積極的に会話する人だから、と言うわけではないだろうけれど、それは性格によるものか努めて明るくしようとしていたのかもしれないけれど、兎に角イベントにも積極的に参加する人だった。


あるとき、打ち上げか歓送迎会のような催しがあって、いつもの日常のようにそのエンジニアさんも出席に丸印がついてる。会話していて楽しい人だから、それはそれで楽しみで。


で、当日仕事を跳ねてお店にみんなで行ったら小さな雑居ビルでエレベータのない2階のお店で。で、どうしたかと言うと、そこにいた宴会に参加する人が申し合わせたように車椅子を担いであがるんだなぁ。もちろんお店を出るときも同じ。


幹事は予約するときにわかっていただろうから、周りに事前に言っていただろうけど、そのエンジニアさんが車椅子でいる風景画日常だからそれが普通の行動になっているのだ。周りが動けばその周りも自然に動けるし、そうして大げさに上がっていけば店のほうも椅子を一つ外して車椅子が入れるスペースを作ってくれる。


当のエンジニアさんも「重くて悪いねー。」って言うけれど悪いと思っている素振りはないし、だれも悪いなんて思ってもいない。だってエンジニアさんがいた方が楽しいんだから。まぁ、誰かが「ダイエットしろよ。」なんていっていたかもしれないけれど。


そう、ワタシたちはエンジニアさんを特別扱いはしていなかった。そこには対等の扱いだけがあった。ただ、配慮はあった。誰だって普通に歳をとれば足腰は弱くなるものだし、腰の悪い人は老若に関わらずいるものだ。それは、扉を開けるときちょっと持っていてあげるようなものだ。


そこには障害者だからとか健常者だからといった区別はなかった。客と店という区別もなかった。ワタシたちは、普通の対応だけをお店に期待していた。ワタシたちには椅子を一つ外してくれるだけでよかったのだ。


そこにあったものが今の人に欠けているものなのかもしれない。