嘘はつかないけれど、すべてを話すわけではない


むか〜し、監査が入ったプロジェクトのプロジェクトサイドをサポートしたことがありまして、そのときに学んだことが一つあって。


嘘をつくなら


“墓場まで貫き通せるなら、ね。”


人は弱いので、すべてを知っているわけではないから、不確かなことがあるとついつい恰も知っているような顔をして虚偽をついてしまうことがあるものです。誰だって一度や二度あったでしょう。


嘘は振る舞いを制限する
でも、それ自体が良い悪いではなくて、ここで虚偽=嘘をつくなら、何が嘘をついた人の不良債務として、何時まで付きまとうのか、という観点で考えてみるとその嘘をつくことで自分の振る舞いの自由度が制限されるかもしれないことに気付くかもしれません。まぁ、その嘘をつく対象が些細なことで誰も不利益をこうむらないのであれば、どうでもいい話かもしれません。


嘘をつく時点で、あることについて不確かで認識を理解をしていないことについてこれからそれが消えてなくなるまで追われる可能性があると思いましょう。知らないことを知っていると言ってしまうとそれがトレースされるような事象であれば、以後ずっとあなたに付きまといます。トレースする側は、あなたから見たらまるで思い出したように、忘れたころに尋ねてくるのです。「ところで、あれについてもう少し詳しく経緯を説明していただけませんか。」とか。


嘘はコストが掛かる
あなたは、嘘をつく時点から一貫して整合性を保たなければなりません。それは、そのしらないことの過去もすべてあなた自身が負うのです。それは、あなたが新しい事実を作ってしまったから、です。人は気まぐれなので、説明を受けた嘘についてそれまで気付かなくても、あるときふと気づくのです。「これまでの説明を聞いて思い出したのですが、ちょっと時系列で矛盾があるようの思うのですが。」と。


ワタシはそれ、つまり嘘をつくことからはじまる整合性を保つことのコストについて気付いたときに、絶対に嘘はつくのはやめようと、改めて思ったものです。嘘はつきません。事実を話します。もちろん、聞かれたこととこちらが話したいことだけ、ですが。