ネットへの接し方なんてそれほどリアルと変わらない


リアルにしても、ネットにしても、後始末ができる範囲で情報を開示すればいいと思っている。


リアルで商売や個人事業など商売をしているなら、宣伝をしないと売れる機会が作り出せないのでその観点だけで情報を開示すればいい。だから、発信される情報は商売に結び付くようにポジティブになるはずだ。そうでなければ商売にならないのだから。誰がネガティブな意見を言う人に身銭を払って仕事を頼むか、と自分が払う立場に身を置けばわかるものだ。


リアルであれば、伝えてしまった人はもちろん、その人を媒介としてその人を中心とした口コミで世間に広まる。普通に起きていることだ。良いこともそうだし、悪いこともそうだ。ただ、悪いことの方が噂としては広まりやすいのは、日頃から競争が観についているから人を出し抜きたいとか、うらやむことを逆手にとって足を引っ張るようなことなんだろうと思う。


所詮、ネットでもやっているのが人なのでそれほど変わらないけれど、リアルと違う点は、それまで接点のなかった人がそれを知ることができるしくみになっていることと一度流通してしまった情報は消すことは困難であるということの2点が言えるのではないか、ということだ。


リアルなら、“人の噂も七十五日”と言っていたけれど、噂自体を知るしくみが出来上がってしまっている以上、誰でも発信された情報にアクセスできれば、それはリアルで話した人の先の人の母数が無数になったのと同じで、実質無限の人に知れ渡ってしまう可能性があるということだ。


リアルなら、話した人の人間関係だけでとどまった、いやさらに伝搬する可能性もあるにはあるんだけれども、リアルであれば尾ひれがというようにオリジナルの情報は劣化も膨張もして変化してしてしまうものだけれど、ネットでは情報がデジタルであるがゆえにオリジナルはオリジナルのまま伝わってしまう。


ネットはオリジナルのまま伝わるということを忘れなければ、それほどネットに接するときに間違うこともないのではないかと思う。


それでも人は間違える生き物だ。なら、失敗をしてはいけないのか、と言えばそんなこともないと思う。人は変わっていく生きるものだし、それは誰でも同じだと思う。だから、間違えたら間違えたと素直に表現するほかない。言葉で発したら、言葉で訂正すればいい。


商売でポジティブにモノを言う、情報を発信するということは、言い方、捉えられ方を工夫しているのであって、悪いことではない。普通の大人が普通にそうして振る舞うのは当然のことだし、クレバーな子どもであれば同じように日頃から振る舞っていることだろう。


そこには、本音を語るとか語らないとかないのではないか。本音があるとしてもポジティブにモノを言うというラッパーでおおわれているから、発信している当の本人にとっては本音を言っているつもりだし、受け手は受け手の精神状態や勘繰る性格の幅でどのようにでも取れてしまうのだから。


ポジティブでラッパーしてしまうので、それは本音ではないというなら、そもそも騙そうとして表現されるのと区別がつくのだろうか。あからさまでなければそれは見分けがつかないかもしれない。それは、情報をたまたま受け取る立場であれば仕方がないのかもしれない。それは情報の受け手に委ねられてしまっているのだから。


それ、つまり、発信された情報がポジティブにラッパーされた情報なのか、騙そうとしているのか、それともそれ以外なのか、情報の受け手にとって欲しい、有益な情報であるかは、発信者がどう考えて情報を発信しているかその可能性を頭の隅に置いて一旦受け止めて、情報の真偽を判別するほかないのではないか。


それは、ネットだけの特殊なものなのだろうか。いや、リアルでも同じであったのではないか。そう、結局、人が介しているという構成が変わらないのであれば、リアルかネットかなんてあまり分別しても意味がないことなのではないかと思う。


それまでリアルで情報の真偽の分別をしてきたように、ネットでも特別なことは必要ないんだ、と。ただ、しくみが違えば方言があるように少しずつ差異はあるもので、それを気にするだけでよいのではないか。


結局、技術が進歩してもそれを使う人が進歩しているわけではないので、それほど大した話ではないということなんだと思う。