過去のデスマもトラウマも成長した自分自身が過去の価値感を変えられる
エンジニアで経験を積めば積むほど、デスマもトラウマもその経験をしてしまう機会が高くなるのは仕事に供する時間が多くなるので当然の結果かと。なので、
「膝に矢を受けてしまってな。そのタスクは譲ろう。」
なんてことになるわけで。
でも、それって経験を積めば詰んだ積んだ全員がそう思うかと言うとそうでもないんじゃないかな?って思うんですよ。
いやいや、そんなことないよって身近なところの“同僚”ならいいそうですけど。何かあると
「あのプロジェクト、顧客の酷さ、トラウマだぜ。」
とか言って同意を求めてくるですよ。こっちは微塵も思っていないけれど「そうですねー。(某」か「(ニッコリと同意。)」の応対をするわけです。面倒くさいから。
だって、ワタシ全くと言って良い程“トラウマ”になんて思っていないもん。これは個人のコトに対する受け止め方の感情に帰するところだと思うので個人差と言えば個人差なんで、なんて言ってしまったら終わっちゃうんですが、それはそうじゃないと思うのよ。
当時と今とでは自分が違う
まぁ、確かにあのプロジェクトは酷かったですよ。アレをもう一度遣やってと言われたら、やらなくていいように、そうならないように日頃の行いを直すもの。実際、あの経験を
“二度としたくない”
と思った、いや、自分に誓ったから、プロジェクトの進捗の違和感を感じる自分自身のセンサーの感度を目一杯上げて、プロジェクトのおかしいと感じるところがないかをレポートだったり直接会話したりして探すようになったんだもの。
それは、自分自身の“意識”やアレな経験を積んだことで自分自身の“状態”が変化した、と言うことなんじゃないかな、って思うんですよ。あの経験をしたから、自分で感じる“感覚”を研ぎ澄まそう、感じようと強く思うようになった、と。
自分の意識や状態を踏まえて、過去のアレを経験したときの自分として向き合い、観察する。どうあれば良かったか、どうすればよかったか、を。
そして、どうしてきたか。だから、ワタシは同僚が何を言ってきても
「(ワタシはそうは感じていないんだけどなー。)」
って思っちゃうから、同意しかねるわけです。
内観と成長が過去を変える
“内観とは自己の意識や状態を自ら観察すること”、の意味なんですが、デスマもトラウマも受けてしまった矢の傷なので受けてしまった傷は消すことはできないんです。
でも、その傷を自分自身でどう解釈するか、それは今の自分次第でどうにでもできることです。
見るものは変わらない。でも、それを観るワタシ自身は変えられる。そう、成長しているなら変えられるんですね。いつまでも、その矢を受けて傷を追ったままの自分なら幾ら歳を取っても変わらないでしょう。それに、見方を変えれば受け止め方も変えられることさえ気づかないいんじゃないかな。誰かのように。
そう捉えると、起きてしまった過去の傷は変えられなくても、ワタシの、自分自身の過去に対する価値観は変えられるということなんですね。
コトを観る視点は変えられるということ。
コトを観る自分自身も変われるということ。
感じ得る価値観も変わるということ。
それは、過去を変えることと同じです。
だからワタシと同僚は、過去を変えたのか変えられなかったのか、と言う価値感をどう受け止めたかを表現するの差が言葉に現れているんじゃないのかな、と。