あなたが担当エンジニアのままで終わるかリーダになれるかの一つの質問


担当システムの仕様の影響範囲が広くその仕様を調整したり、プロジェクト全体に関わるスケジュールの調整が必要なことは、それに関わるステークホルダとそのテーマによっては長い時間を費やしてそれこそ“調整”をしてモノゴトを“決め”なければなりません。そう言った行為が、

“政治に見えて嫌に感じるか。”


担当する身近な範囲でのそうした相似形のタスクであればそうしたことは言わないのに、リーダクラスの同じようでテーマのスケールが少し“だけ”違うモノゴトになった途端、アレルギー反応にでもあったように毛嫌いするエンジニアがときどきいるものです。その振る舞いは傍から見ていてまるで、

「(中二病でも発症したのか……。)」


とか、

「(もう大人になろうよ……。)」


とでも思いたくもなるんだけど、当の本人は気にしていないようなんだけれど。


担当する仕事の大きさがモノゴトを判断するすべての指標値ではないけれど、小さな仕事は小さくなる前に様々な人の手を経てくるからすっかり形も重さもイメージもはっきりして届くもので、はっきりとイメージできる分前提や制約のおまけもついてくるんですよ。


それが良いか悪いかではなくて、「そういうものです」ということなんですね。


一方、大きな仕事はただボリュームが大きいということではなくて、いや、矢鱈滅多らとサイズが大きければやっぱりそれを担当のエンジニアに下ろすまでにそれなりの時間を掛けてやっぱりたくさんの関係者と調整をしながら担当エンジニアがやれるサイズまでタスクを分化していくことになるんですね。


それでも只大きな仕事だけであればまだその大きな仕事を適度な粒度にすることが占める割合が多いだろうけれど、姿かたちも見えていなければそれこそ必要な多くの人たちとかなりの時間と労力を掛けて関係し続けながら、期待する姿に誘導しようと駆け引きをすることになるわけで。


その駆け引きは言い方を変えれば“着地点を探す”という言い方もできますね。そうした着地点を探したり、時間を掛けて“落としどころ”を探すような行為が自分にとってどのように見えるのか、どう受け止められるのか。


小さな仕事はそのタスクの粒度が小さいが故、期間で見ても短いものです。だから、その作業をやり終えるまで集中しないといけない時間が短くていいんです。だって、前提や制約で自由度が少ないんですから。


でも、大きな仕事は、姿かたちも重さも誰もわからないところからモノゴトを決めていくことになるだけ、終わるまでの時間は想像はつくかもしれないけれどその時間は小さな仕事とはその単位が違うし、不確かな分、いつまでかかるかわからない間にどれだけ集中し続けなければならないか、集中し続けることの大変さに耐えていかなければならないか、だれも知ってはじめることではないんです。


大きな仕事で長い時間のコストを掛けてしまい、その成り行きが想定と違ってきて且つ集中も切れてしまったら、そこまでかけたコストに対してのオブリゲーションが強くなりすぎて、本来の目的が棚に上げられて少しでも掛けたコストの回収に入ろうと、大きな仕事を終わらせることを目的にすり替えてしまいかねないし、集中力が続かない人には良くみられる傾向なのも事実です。


エンジニアだから、と言うだけで大きな仕事を政治だとか言ってそれを疎むなら、そのエンジニアのパフォーマンスはその程度であって、大きな仕事を任せられるには少し様子を見たいと思ってしまうんです。


リーダになれる要素を持っているということは仕事のサイズに関わらず、調整と言う政治を行える力を持っているかどうか、なのだと思うのです。