エンジニアが歳を重ねて気づかされるFacebookの本当の武器とは


この時期になると誕生日というものが決まりきったように巡ってきて、又、一つ歳をとってしまうんです。40代前半までは自分の誕生日なんて気にもならなくて、大げさではないけれど、自分がこれで何歳になったか忘れて仕舞ていたことを思い出すくらい、歳について関心がないんだ。


自分の歳に関心を持たないし、誕生日なんて「それで?」程度しかいまだに思っていないから、人として関心を持てない人の誕生日は覚えようともしない。


さすがにワイフや子どもと暮らすようになって

「(それは拙いよな。)」


と思うところもあって、ワイフと子どもの誕生日に限ってはその日に何かしようとホールケーキを買ったり花束を買ったりプレゼントを買ったりするんだ。あと、ワタシが関心を持っていてたまたま誕生日を知る機会があった人の誕生日は気になるのは、やっぱり人は関心を持たないとそれが血のつながりの有無にかかわらずそれをイベント駆動として何か次のアクションに結び付けるという次工程までは「(心が動かないものだなぁ。)」とツラツラと思うんですねぇ。


多分、淡白というか薄情なのかもしれないけれど、そうしたワタシにとって繋がりの濃淡のある関係をビジュアライズしてくれるFacebookのお友達の誕生日を知らせてくれる通知はとても「いいね!」なんだ。これも私に限っていることなのだと思うんだけれど、自分自身が関心をそれほど誕生日に持てないから自分がオジサンになるともう、誰も祝ってくれないし、そんなお祝いをねだったり、祝ってもらってうれしい年齢は当の昔に過ぎ去ったんだ、と思っていたんですね。


ところが、ところが、デス。ここ数年それも勉強会などのオフラインやオンラインで繋がった人が増えてくるとそれをネタにFacebookで繋がることができて、「昨日はお兄さまが、今日はお姉さまがお誕生日です!」と教えてくれる。人の繋がりが今ほどないときはまだ、そのお誕生日の通知に気づかないことが多かったけれど、今はそのお誕生日のバーナに目が自然と行ってしまうんです。


すると、早朝クラスタとしては朝一で「○○さん、お誕生日おめでとうございまする♡」とメッセージを送りたくなるんです。不思議。フシギ。


Facebookなんて、誰かの「××がおいしかったよ。」とか「△△に行ってきました。」とかの写メを見て何が楽しんだよ、なんて言う人もいたりするけれど、“いいね!”もそうだし、この“お誕生日の通知”が、

“最大の武器なんでは?”


なんて思ったり。

だってね、誰も褒めてくれないんですよ。大人になると。


いや、褒めて欲しいという強い承認要求を持っているわけではないけれど、ちょっとした、不意の「ありがとう。」とか「おめでとう。」とか「いいね!」って意外と自分の気持ちを駆動してくれるんですよ。そうした、小さな燃料がボーキサイトが自分を駆動するんじゃないか、そんなことを思うんです。


自分を駆動するきっかけを作ってくれると、もう、それにロイヤリティ働くモン。Facebook疲れとかいうけれど、その更新頻度は個別最適化されるけれど、そうしたちょっとした更新とか、タブでブラウザをアケッパとかいつでもアクセスできるようにしていることはそれまで以上に多くなっているような気がするんです。