前提や仮説にこだわっていると困るのはエンジニア自身なんだよ
今日はクリスマスイブですね。我が家はすっかり23日がクリスマスパーティになって久しいですね。クリスマスパーティなのでプレゼントが届きます。サンタさんから届いたり、パパから手渡したり。子どもが小さいときはサンタさんから子どもにプレゼントが2つ届いていました。
パパからのプレゼントは、ここずっと来年のカレンダを贈っていたんですが、選ぶ方も飽きたというか、好みがわからなくなったということもあって、日々使える実用品を送ることにしたんですよ。一人一つ。これから毎日使うコトになるのでしょう。
エンジニアが貰うもの
エンジニアがもらうもの。仕事、学び、ストレス、給料、デスマ……。まぁ、働いていればいろいろ与えられますね。それも若ければ、仕事をしようにも右も左もわからないわけで、先輩たちから所作含め、諸々と分けていただくことになる。
最初はそうですね。OJTなりOffJTの仕事場と研修をとおして仕事に必要なネタを仕入れ、自分でやってみる。壁にあってわからないことは教えてもらう。ここでもやっぱり教えてもらう。その先に進んでもやっぱり壁にぶち当たってわからないことを訊く。
訊くことは悪いことではないんです。ただ、相談なのか、答えを聞こうとするか。これのどちらを得ようとしているのか。それが問題になるかどうかなんですよ。
自分の前提に固執するエンジニアは解決を要求する
仕事で不確定なことがあれば仮説や前提を置いて仕事を進めることは良いことだし、必要なスキルだと思うんです。そうした思考がないと何も進まなくなってしまうのですから。だから、必要なスキルなんです。
ところが、自分でおいた前提や仮説が絶対だと考えすぎている人も少なくなくて、そうした試行をするエンジニアは大概その前提や仮説が崩れると途端に頭が白くなるんですね。いや、白くなっているじゃないか、が正しいのでしょうけれど、でも実際、「そうか。じゃあ、その前提が変わったのだからこうして……。」とはならないんですよ。
自分が置いた仮説や前提が崩れてしまうと必ずと言って良いくらい、「じゃあどうしますか。」と訊いてくる。いやいや、それってその仮説を置いたときに最悪のケースを想像したら実際のアクションプランというかプランBまで子細に考えなくてもいいけれど、「想定はできたでしょ?」って言いたくなるんですね。
それってつまりこういうことなんですかね。
課題を自分で設定できるかどうか
そうなんですね。仮説や前提を置いてい考えるのはできるのはなぜかを考えると、その仮説や前提を考える起因はタスクからであって、タスクは自分で考えていないからではないか、と。
つまり、課題設定をしていないから、なのではないか、と。課題を自分で考えられるとしたら、すべてが理想でハッピーで進むケースも考えられるし、最悪の事態ばかりのケースも考えられるわけで。でも、そんな極端なことがないから3点見積もりではないけれど、中央値を取ってシナリオを考えるですよね。
もしかすると、そうした最良も最悪のケースも考えていなくて、自分の頭の中だけで思いついたルートだけで考えているのかもしれません。何かこっちの方が行動を見ているとしっくりするかも。
自分の思考を疑う
ワタシ、結構自分を信用していないんです。だって、技術においては知らないことばかりだから。プロジェクトマネジメントだって携わった事しかわからないから。だから、考えたこと、やったことしかわからない。
そして、体験したこと、学んだことしか思考のスタートラインにしかできない。
それは限られた自分の事項の上でしか考えていないということ。だから、何かの課題を解決するアクティビティを思いついたとき、「それほんとただし?」とか「それ楽観的すぎない?」とか「何か忘れていない?」って思っちゃうんですよ。
自分を信用していないんですよ。
だから、自分のアクティビティは小さくステップを刻んでそれを確かめながら進めるんですよ。だから、前提も自分が置いたものなら変化がないかが気になるし、貰った情報ならそれも変化がないかポーリングする。
そうしてちょっとずつ進めることで、不確実性を確実に変えていく。そこに答えがあるんだと思っているんです。