エンジニアの学びに機は訪れない
何と言うか、ホント、そう思う。アレをやろう、コレをやろう。そう思うけどやらない理由は作れるがやる理由は作れない。そして思う。
「タイミングをみて。」
「気が熟したら。」
「明日やる。」
でも結局やらないんだよね。ひとって。
やらない後悔とやってしまった後悔
高校生のときとか、大学生のときとか、今から見ればやることはやってないし、逃げられることがあれば逃げていた。だって、楽だからね。その場をなかったことにするんだから。
でも、わかっているだよね。内心は。今、それをやらなければ、後になって利子もついて面倒になるって。でも、
「嫌なんだよ。」
っていう、感情が前に出てしまうんだよね。気持ちを埋め尽くしてしまう様な感覚と言ってもいいかな。そういう行動が良いか悪いかなんてないんだよね。今やるという選択をして手を付けてしまうのか。それとも、やらないのか。
やらない、と決めればいいんだけど。だって、そう言う選択をすると決めたのだから。決めればいいんだ。だって悩まないんだから。
でも、若いとき、感情を前面に出して物事を考えると判断が鈍くなるんだよね。そして、あとでぐじゅぐじゅとしてしまうんだ。
大人になるっていうのは、そうした感情ではなく、理性で、自分が選択しなければならない選択肢を論理的に選ぶことが出来るようになったこと言うのかもしれない。
エンジニアに学びの機は熟さない
“エンジニアは学び続けなければならない”
そんなことは誰もが知っていることだ。でも、本当にそうなのかな。ネット界隈を眺めていると誰もが仕事に熱心に取り組み、誰もが勉強会に足を運び、誰もが自己研鑚をしている。そのように見えるんだ。
でも、自分の周りを振り返ると仕事場以外で自己研鑚している人より何もしていない人の方が多いようにしか思えてならない。
もしかして、学び続けていくこと、というのは間違いなんじゃないか、と思ってしまうくらいに。与えられた仕事に四苦八苦しながら、レビューで絞られ、作業のふるまいで改善を要求され続け、納期も品質もギリギリでパスさせてもらっているような。
そういう生き方もあるだろうし、仕事の仕方もあるかもしれない。あるかも……ね。
いや、やっぱりそれは違う、と思うんだよ。そうした仕事の仕方は、ワタシが学生のときにやらなかった、選択してこなかった方なんじゃないか、と思うんだ。
ワタシは思う。
自分がエンジニアとして学ぶというふるまいは、気と言う何者かわからないものがワタシを学ばせることを駆動することはないんだ。ワタシが自分で学ぶという行為を選択して、スイッチを押下するという所作に遷移させることから始まるんだ、と。
そんなことは、子どもの頃から知っていたハズなんだけど。でも、それを出来るようになったから大人になれたかもしれない。大人とは、自分で自分をやると決めたことに対して働かせることなんだ。それは、“気”がワタシを駆動するんじゃないんだ。
さて、次は何をしようか。