本を読むことが知的かどうかより、本を読んだ後のアクションメイキングでその読書の価値を知ることができる


イタリア版『WIRED』記者の記事「本を読むって、そんなに知的な行為なの?」を読んだんですけど……。「読み書き能力、読解の基礎的要素だけ」でなく、「数的思考力や、ITを活用した問題解決能力を含めてベンチマークして欲しい、と言いたいのはわかった。うん、それで?


OECDの調査に限らずこうした調査物は、サーベイする側の都合や調査のし易さや、調査後の提言の裏の目的を踏まえてシナリオを書くものだと思ってみると割とどうでもよくなるもので。なんかやっているようだけど、まぁ、御勝手にどうぞ、みたいな。


そんなことより、記事のタイトルを文意どおりに解釈してみたらどうだろう。本を読むことは知的行為か、と。ワタシは本を読むことについては知的か知的でないかは読書しようとする本への目的、期待で変わるのではないかと思うんですよ。ワタシが禁書や西尾維新を娯楽として読むときは、「うふふ」と笑ったり、「ハラハラ」と興奮したり、「ポロポロ」と涙ぐんだりすることを期待してページを開くのです。そこには、あくまでも娯楽を主眼としての読書を目的としているので何か学ぼうとする意図はほとんんどないのです。ただ、ときどき会話に紛れ込む「ドキッ」とするようなセリフが琴線に触れることがあって、それから気付きを得られるときには娯楽が一気に学びに変わることもあるのです。


一方、端から学びをするつもりで本を読むときは、次の明確な目的があるのですね。その前に、ワタシにとって本を読むという行為は物理的制約から実体験できないことを疑似的に体験するチートなのです。何を言っているのかと言うと、自分の体は一つしかないのでいくらやりたいことがあっても体は一つしかないから一つのことしかできないし、時間も限られるから一つしかできない。そうした制約をあたかも自分が経験するように本を書いた人の経験を疑似的に、且つ、時間を短縮して経験しているのだ、ということなのです。著者の経験を実利的にのみ触れているのです。


そうした本を読むと言う行為も、その行動の意図により目的が二つに分岐するのですね。そのうちの一つは、ワタシにとって知識のホワイトスペースを埋めるもの。


例えば、3年前にアジャイルスクラムが必要になったとき、インターネットで先駆者がブログに書いていた記事ではもう一つ概念的にも実践的にも曖昧と言うか自分の頭の中のイメージが得られなかったとき、アジャイルサムライを読んで具体的にイメージアップした読書体験がそれに当たります。概念だけを乱暴に言えば、ベースはウォーターフォールのプロジェクトでやってきたことを生かせるのだと読み解き、自分の言葉で表現できそうだと目星がついたとき、この本の読書の目的は達成できたんですね。


もう一つの目的は、自分の経験だけで仕事をしているとどうにも思考が自分にとって都合の良い方に考えてしまうんです。たぶん、これは誰もが同じことをしていると思うんです。だから、ワタシがそうした行動をとっているときに、その自分に都合の良い行動について突かれるとすごい嫌な気分になるんです。「あぁ、やっぱり?」みたいな。


そうした自分の経験だけでやってきてある意味袋小路に入ってしまったときにその突き当りの壁を更に経験だけで突破するか、一旦、立ち止まって余所から他人の知識を体系として取り入れて自分の経験と比較して同じところ、違うところを知り、その違うところが自分にとって「目から鱗」であればそれを取り入れる、ということを目論んで本のページを進めるのです。


研修開発入門は正にそれで、これまで何度もコミュニティの中でワークショップをやってきてどうにも行き詰まり感があったのですね。人を集めることが思うようにならないとか、ワークショップで自分が伝えたいことが思うように伝わっていないように思える、とか。そうした気配は、小さな声でも届けばいいのですが、なかなか伝わってこないのです。


ただ、自分の中でも何か経験ベースだけだと今のステージから次へ行けないという感覚があって、それを「どうにかしたい!」という思いもある。それを動かすには何ができるかと周りを見るのだけれどどうにも変化するきっかけになるような人が思い当たらない。一番いいのは生きた人の声を聴くことだと思うのですがそれが儘ならないのだとするなら、本を手に取るほかない、と。


そうした二つの目的がある場合、何れも、ただ読んだだけで終わることは良しとしないのです。読んで終りが目的でもないし、本を読み終わったという完了条件ではないのです。その本を読もうと思って書店に出向き、ページを開きパラパラと捲って意図する得たいナレッジがあるかどうかプラクティスがあるかどうかを判別するのは、本から得たことをワタシの脳細胞に加えて新しい自分をビルドして、自分の行動を変えたいからなのです。それに手を付けなくては。本を読んだあとに得た、気づいたことを糧に次のアクションを計る算段まで行くことではじめて四を読み終わった、なんです。だから、本を読む行為が知的かどうかより、本を読むことの価値は、

“本を読んだ後のアクションメイキングでその読書の価値がわかる”


と、思うんですよ。