品質担保をしないのはまるで手榴弾の安全ピンを抜いてキャッチボールをしているみたいだ


試験工程で大規模トラブルが出ていると聞くと、「あぁ、また自爆したのか。」と。なんというか、また誰かがやったのか、みたいな感覚です。そして、そうしトラブルが出すべき工程で出し切れておらず、次工程に持ち越してしまったような、所謂、レベルの低いバグが出たとき、その余波は横並びチェックという、本来ならやらなくていい作業がきちんと品質を作り込んでいるチームにまで届いてくるんですよね。


そうした余波のようなことは、そのもととなるトラブルがなければ起きなかっただろうし、同じトラブルが商用利用されるようになってから起きたらもっと目を当てられないのは想像に難くないけれど、自爆するようなエンジニアは想像の「そ」の字も考えたりしないのはなぜなんだろう。


機能を検証する工程、つまり、試験をする工程で出すべき不良はだせるように試験の方針を作らなければならないし、仮に後工程に相応しくない不良が発現したときに、試験方針は間違っていなかったとして、不漁に掛かる対処は限定的に出来るような理論武装をしておくことが必要なんですよ。


今苦しいからと言って、じゃあ、その試験をやらないとネグったプログラムやパラメータは次工程で検証されるのかと言えば、やったりしないのだよね。そして、ネグって品質を担保されない機能はリスクを雪だるま式に積み上げていくわけです。


勿論、リスクマネジメントを知っている人がみれば、リスクなんて起きなければ机上の心配だけれど、対策をしない、つまり、品質をなんらかで担保しないということは、のちのちリスクが発現したときの時間軸の進度によってエクスボージャが膨れ上がって支払いきれない負債を目の前にして愕然とするんだよね。


そうした光景をみていると、まるで手榴弾の安全ピンを抜いて、キャッチボールをしているみたいだ、と思えてしかたがないんです。ピンを抜いている状態がまるで試験をしていない状態で、後は誰の所でbombとなるか。その上、その手榴弾には顔を背けて見ないようにしながら。