学び続けなければいけない一つの理由


学ぶことの理由は人によって様々な理由があるものだと思うのです。


ワタシが毎度引き出しから出してくるPMPを取った理由は自分がやってみたい仕事をするための裏書にしようと思ったためです。そして今だ50歳を前にして新しいことに関心を示したり手を出してみたりしているのは、そのコト自体に関心を持ったから、というとても単純な興味本位からくるものもあるけれど、別にもう一つの理由があるのです。


ここ数年でやってきたアジャイルスクラム、カンバン、TiDD、朝会、ふりかえり、ケプト、レビュー、研修、コミュニティ、読書会などなど、これらは夫々に興味を持ったから実際にやってみたと言う理由が実際に手を出すコトに繋がるわけだし、それはワタシの中である意味直感的に選択しているだけなのかもしれないのだけれど。


ただ、その直感で、今、目の前でやらなければいけないことを、今まで経験して自分のものにしてきた手段を見渡したうえで足らないモノを見極めるという選択をするということは、自分とときどきは向き合って事実を認識しなければならないし、目の前にあるやらなければいけないことのゴールにたどり着くために必要な道筋を付けられるだけの眼識は必要なのだと思うんです。


だから、スクラムやらTiDDやらをやってみても、書籍とかネットのノウハウとかで教えてくれるような使い方はせずに、目の前にあるやらなければいけないコトをやるために不足している部分を補強するような使用者側の勝手な要件に対する勝手な利用方法を考えて使うなど、ある意味パッケージを如何にソリューションとして取り込むかを無意識にしているとこれまでのふるまいを見返すとそう思えてならないのですね。


言い換えると、自分の課題を解決するために目新しいおもちゃを如何に自分にとって楽しく遊べるか、その方法を考えるようなことをしているんですね。これって、単に課題から解決しなければいけない課題設定とツールの見立てるスキルだけではどうにも解決しないのではないか、と思います。


なぜか。


それは、その課題を解決するために課題設定をできたとしても、それまでのその人の経験や暗黙に蓄積された知識やそうしたその人に依存するノウハウの上に築かれるものだから、です。その人がその人自身によって訓練されて鍛えられた知識の海に点在する知をつなぎ合わせることが出来て初めて、直感として内在する意識として認識されるし、選択として行動に表れるのだ、と。


学ぶ理由は様々だけれど、その深層では実は繋がっていて、直感や選択に深く結びついているのです。