人間関係を上手く処理するエンジニアになるためには自分との関係から

腕を組んだときに右腕と左腕のどちらが上になるかと手を組んだときに左右のどちらの親指が上になるかで右脳左脳を調べるのがありましたけど、ワタシ、うう脳みたいですね。いつもポジティブでナルシスト、らしい。左右のどちらが上かなんて、聞き手利き腕の世界だと思うんですがどうなんででしょうか。それはともかく「直感的なひらめきやイメージのまま行動する」なんていう解説の下りは「そうかも。」とか思うけれど、「趣味は一貫していて」とかあるけど、やっぱりこういったことはオールラウンドに当てはまるようにするからか「そんなことないよ。」と思ったり。


「直感的なひらめきやイメージのまま行動する」は良いこともあるけれど、一方には「感情的」な面がネガティブに捉えられなくもないです。そのネガティブな面で自分を振り返ると、案の定、感情で反応することがままあったのは若気の至りと言うか、すみません、というか、恥ずかしい限りです。


そうした感情をコントロールをせずに言動をするとそのときは言い放っただけ自己満足をしているのではないかと思うのだけれど、今となってはあまりそうしたことをすることがほとんどなくなったので想像するほかないのだけれど。でも、そうした感情を前にして発言をするときは一体何に対して感情を高ぶらせていたのだろうと思うのです。「一体何に?」そうした行動は、今なら「弱みを突かれた。」「理解できない。」と言ったような取るに足らないことを燃料に自己を加熱していたのではないのかなー、と。


あちらこちらで仕事をしていると、その場所場所で感情に流されない人を見かけるたびに「どうしたらああいった風の感情を抑制できる人になれるのだろう。」と内心いいなぁ、と思っていたんです。どうしたらそういう風な人になれるか。何を知れば、何をすれば、と。


自分が管理者ではないと割り切るという考え方
例えば公共機関や施設で不埒な行為をしている人を見かけたとき、若いころなら「(あの人何やっているんだ!)」と勝手に体温を上げていたものです。ホント、バカです。何の得にもならない。そんなことを考えるより、自分のことを考えた方が良いのに。


無関心と言うわけではないんです。困っているひとがいれば、自分が一番身近で助けられることがあれば手を出すこともあります。河川の岩があるようなところにセダンが乗り込んできてアンダーフロアに岩を抱え込んでしまったのを目撃したことがあって、そのときは周りの人と持ち上げてレスキューしたコトもありましたね。


割り切るのは自分が管理者とか所轄とかコントロールできるかできないか、です。裁量があるなしでもいいです。駅でのトラブルなら、駅員に通報するまで、とか。小さい子が飛び出そうとしていたら手を広げて止めてあげるとか。そうした自分のコントロールできる出来ないを判断基準にすると大分感情の温度を上げなくてよくなりました。


自分自身のことではないと感情を切り離す
仕事でよくあることは、そのことがまるで自分のことの、自分の一部であるように考えて行動してしまうことがありました。これもよく考えてみれば、自分のアウトプットやメンバのアウトプットが指摘されたりすると、それを変に守ろうと反応するんですね。得てしてそうした行動には、内心突かれたら困ると思っていることがあって、実際、そこを突かれるから脊髄反射で感情の温度を上げてしまうんです。


こうした感情の温度を上げないようにするには、自分が作ったものは、自分の分身ではないと思うことです。自分が作ったけど、「過去の」自分が作ったものであって、今のワタシが作ったものではない、と。そう考えることで、いくら指摘されても気にならなくなります。「そうですね。いい指摘です。直して改善しましょう。」と言うようになれる。これを手に入れるととってもココロの負担がなくなります。だって、指摘は過去の自分が作ったものを良くしてくれると思って聞くことが出来るのですから。だから、指摘が見当はずれなら見当外れだと冷静に返すこともできるようになります。


感情を知る、制御する、ために動機づける
いろいろと世の中には感情をコントロールするハウツー本もあるけれど、自分の感情を知って、感情をコントロールしたあとの姿をイメージできたら、そういう人になろうと試行錯誤するのが一番の近道です。


で、感情は日々自分で感じることが出来るので何度もリトライして工夫しやすいです。こうした自分の感情をコントロールする、育てることが出来るようになり始めると、今度は周りの人の感情が少しずつ分かるようになります。これも感情を知ろうとすることで得られることです。