ワタシは何も知らないけれど無能にだけはなりたくない


羽川翼ちゃんではないけれど、ワタシも「何でもは知らないよ。知っていることだけ」しか知らないのである。


仕事をしていればその井の中で起きることだけを経験として学ぶことが出来るけど、あくまでも井の中だけ、に限定される。でも、その井の中で起き学ぶ対象となることは繰り返されるルーチンの上でちょっとずつだけ違うことであって、目新しさやときめきなんていう色めいたものはなく、いつの間にか同じ風景であると認識する能力も鈍って意識も混濁してしまうのではないかと、ただそれが怖い。


人は知ろうとすることで成長する。知ろうとしなければ成長しない。ううん、当たり前。何かを得ようとすれば、コストを先行して支払い、その「何か」を手に入れなければいけない。これは必要経費であって、投資である。投資であるから期待する「何か」を得られるかもしれないし、何も得られないかもしれない。でも投資とはそういうものなのである。それを投資をする前から駄々をこねて門前でじたばたするくらいならそんなことを考えない方がいい。おとなしく「知ろう」とする思いを捨ててしまった方がいい。駄々をこねる分だけ他の享楽に時間を消費できるから。


世界は人の時間を如何に消費するかだけを考えている。遊興にしてもスポーツにしても学びにしても全部一緒なのである。全てはその時間を持っているがわの人に委ねられている。


必然的に人は「知ろう」と学ぶことを覚えるがその期間は自然のままでは続かない。そしてその期間が終焉を迎えると人は成長しなくなる。そしてそれまでの経験と学びだけで成り行きで流されていく。こうして無能な人がまた一人生産されるのである。


そうした「知ろう」とする学びの期間を如何に継続するかが一つのカギになる。放っておけば人は楽な方を選ぶのである。その楽でない方を選ばなければならない。それを選ぶ機会を無理をしてでも作ることが少しでも「無能」から自分を遠ざける唯一の方法なのだ。


ワタシもいつかは「知ろう」とすることを放棄するのかもしれない。そしてそのとき「無能」になるのかもしれない。それを想像するコト自体「嫌だなぁ。」と思う。


その嫌なイメージを思うと生涯エンジニアを続けないといけないなぁ、と改めて思う。