口笛をまねる子どもと影響されないエンジニア



「戦場にかける橋」の「クワイ河マーチ」を見た子どもが直ぐに真似て口笛で吹いてみせたのを見て「(子どもはこうしてすぐ真似るところがかわいいんだなぁ。)」なんて思ったり、「(お前もう小学校じゃないんだからさぁ。)」なんて思ったり。


子どものうちは、見たものをそれこそ見よう見真似で繰り返し真似が上手になる様に変に頑張ったり、読んだ本のとおりできるように体を使ってやってみたりしたものだし、実際、目の前で口笛を吹いていた子どもを見ると人とはそういういいものなのだと思うんだけど、いつの間にか、子どももエンジニアになると物まねをしなくなるのはどうしてなんだろう。


自分で既出の方法論やプラクティスをマリア―ジュさせて、汎化させて、なんて話じゃなくて、まだアーリーアダプターレベルかもしれないけれど、ホントに技術的に生き残るかどうかも分からないようなもの、でもなくて、すっかりメジャー化したり、10年は生き残っているようなものの本であってさえも読んで真似をしようとしないエンジニアが多い。


多分、そうしたエンジニアも子どもころは見よう見真似で学んできたはずなのに。なんだろう、こうも好奇心なり関心を失ってしまったのか、それとも見よう見真似でやってみせたのに誰からも褒めてもらえなかったせいなのだろうか。


幸いにもワタシはまだ子どもの様で好奇心を持ち続けていられるのは別の要因もあったりするからなんだけれど、少なくとも好奇心を一片を持ち続けていられるうちは、実際に好奇心から何かを試すことになって、たとえそれが好奇心を満たすことが無かったり、身に付けられなかったりと結果として失敗となったとしても、それをやってみたという経験の分だけ成長の傷を残すことが出来るわけで。


自分の成長は自分で作る方が良いのは当たり前じゃないかと思うのは、子どもが自分で関心を持って見よう見真似で覚えることの学び方といつ役に立つかわからないけれど尊徳じゃなくて自分自身の辺鄙な技能の経験値をムダに上げることで得られる影響が何かしらあるからで。


そういった観点でモノを言えば、関心ごとを自分で経験しないエンジニアはエンジニアとしての成長過程がまったく止まっていてなんら自分自身への影響を及ぼしていないということなのではないか、なんてたかが子どもの真似る「クワイ河マーチ」を聴きつつ思うのであった。


エンジニアならこの夏1冊くらい本を読んで仕事で試してみなよ。