「後の解釈は任せるから」と思っていないなら指摘は定量的に


仕事場で一緒に働いている仲間を見ると過去の自分を見ているような気がするときがあって、「(そんな自分もいたなぁ。)」と思ったりするときがるんですよ。


割と思うのは、

「会話をするなら相手に合わせなさいな。」


かな。割と人って曖昧に話すんですよ。それって、ワタシの周りだけなのかな。どうなんだろう。ワタシの感覚だと、曖昧に話してしまうときは、

  • 後は任せるけど気になることを伝えておくからねー
  • 情報を持っておらず自信がないんだよねー
  • 責任の所在を受け止めるだけの腹を括れないからなー
  • 関わりたいくないんだよねー


という心情が内面に潜んでいるからかもしれないです。一番多いのは1つ目、かな。「お前ならこの程度のヒントでわかるだろ?」ってやつです。2つ目だって、その情報も自分で確かめればいい程度のことだったり。ときどき専門家でないとわからない範疇だったりしますけど。


で、2つ目以降は「それを聴く身になって」という観点が抜けているから、そうした曖昧な発言を気に留めずにやっていたんだろうと、あるとき何かのきっかけで気を付けるようになったんですね。


不思議なことに、人は自分が気に掛け始めるとそれまで自分自身が平気でやっていたことや目に入らなかったことが気になり始めたり、目に付くようになってくるんです。例えば、新しい車に関心を持ち始めると今まで気に掛けていなかったから故に視界に入っても認識しなかった車が意外に走っていることに気付くんです。「あれ、この車今売れているんだ。」と。


同じように、自分が気になりだしたことを他人がやっていると、それをやっている人に直接言わないけれど、


「(ワタシ気になります!)」


と、千反田えるのように脊髄反射するわけです。前振りが長いとか、ツッコミは要らないです。いや、えるたそが言いたかったんじゃないの、とかそんな突っ込み無くていいです。


曖昧に指摘していいのは、曖昧な指摘で気づける人にだけ
曖昧に指摘をするということは、その指摘を受け取った側に解釈する裁量を与えるということです。与えるというより、全面的に委譲するの方が近いかも。兎に角、発言者は、受け手が解釈した後とやかく言ってはいけない。そのくらいに腹を据えてからにして欲しい。曖昧に指摘するなら。


もしそれが出来ないなら、定量的に、具体的に指摘をしないといけない。だって、解釈に余地を持たせないということですから。


曖昧さとは、発言者の発言目的を中心にした場合に±(プラスマイナス)の幅を持たせる、ということです。それを分かっていないで曖昧に指摘をするということは、ワタシから言わせれば後出しじゃんけんするようなものなので卑怯だなぁと思うようになりました。だったら、「最初から全部言えよ。」って。


曖昧に発言しているときにその真意が↑の1つ目じゃないければ、全面的にその責は発言者が負うべきです。まぁ、あとあと面倒になりたくないその指摘を受ける方が出来ることは、「お前の曖昧な発言は『ほげほげ』という意図か。」と念押しすることくらいでしょう、


逆の発想をするなら、曖昧な指摘を発言者の意図を汲んで理解と対処ができると想定できないなら、具体的に発言内容を示しなさい、ということになります。それは、

「発言者の指摘の意図を中心としたときに受け手に解釈の幅を持たせない。」


ということです。であるなら、発言者は誤謬を生じない定量的で具体的な指摘方法を配慮しなければならない、ということです。


あぁ、いつものことですがベテラン全員が曖昧な指摘を発言者の意図を汲んで理解できるわけではないし、若手全員が曖昧な指摘を誤解するわけでもないです。受け手の背景で左右されるのでその点も考えれば益々発言者は会話するコンテキストや知る限りの受け手のコンテクストを推測して話さないと二度手間になるでしょうねぇ。