どうして、いつもタスクをマネジメントできず「のうきすべーる」になってしまうのか


どうしてエンジニアは自分のタスクのことになるとマネジメントをしなくなるんだろう……と、自分のPCに表示しているタスクリストを見て思うんです。「すいません。」と慣用句のようにつぶやくけれど、それでタスクリストが完了するわけではないこともわかっているんだけど。じゃあ、「なんで自分のタスクになるとマネジメントしなくなるん?」のその理由はなんだろう。


面倒くさい
一番多いのがこれじゃないか、と。面倒くさいとは手間のかかるタスクだったり、面倒くさい人とコンタクトしないといけなかったりするから面等くさいんです。どういうことかと言うと、もう、やることがわかっているということです。


これから、いちから作業を建て付けるのではなくて、もう手順が決まっていたり、人に会って何かを決めてきたりレビューを受けてくればいいような、アレコレをすればいい、と作業が見切れている状態なんです。


見切れているということは、将来が高い精度で予測できるということです。だから、不測の要素が少ないのでワクワク感や恐怖感などのベールに包まれることなく知覚しまっているので「面倒くさい。」んです。


何をすればいいのかわかっているし、どうなるかも予測がつくし、どれだけ時間が必要かも大体は「経験則」から知っている。で、見切れているからこそ不確定要素も少ないので「これだけ時間があれば大丈夫だろう。」と自分に甘えるですねぇ。


で、終わらない、と。


挑戦という無謀
もう一つ、対極的なものが「挑戦」です。これはもう危険。「挑戦」というキーワードがあったら危険ドラックどころじゃないです。「危険タスク」です。小林製薬に名前を付けてもらった方がいいかもしれません。「のうきずれーる」とか。


先の面倒くさいタスクは、将来が高い精度で予測できるから面倒くさいんですが、こっちの「のうきずれーる」は、挑戦と言う言葉が表わすとおり、やったことがあるタスクじゃないわけです。もう、バッチり初体験モノです。


周りもいけいけゴーゴー!になっているんです。大体そういうときは。でも、それじゃいかんです。


いけいけゴーゴー!のときは、得てして「とりあえずやってみる」「走りながら考える」なんて外野はかっこいいこと言いますけどそれ、当事者じゃないから言えるんですよ。自分がやるんなら、その時に集められる情報は集めて、仮でもしくみを建てつけしてやらないとやったことがそれでよくて、そのまま進めていいのか、修正すべきなのか、名誉ある撤退をするのか判断をしようがないですから。


挑戦と言うキーワードがあったら、まず検証なのです。検証して、アプローチがイケているかイケていないか、その検証結果をもって将来をまったくの不確実性の中だけで判断するようなあてずっぽではなく、少しだけでも不確定要素を減らしていくようにしないと「のうきすべーる」になっちゃうんです。


まとめ
それだけわかって、ブログ書いているなら「さっさとタスクリストを消化せい!」ということです。はい。