エンジニアは設計書で技術を綴る −テキストを書いているときに感じたいくつかのコト−
研修教材や書籍のようなテキストを書いたことはあるでしょうか。ワタシは、運がよかったのか、destinyなのか、たまたま複数の機会を得ることができたのはとてもありがたい経験をさせてもらったと思っています。欲を言えば、また、いくらでもやりたいとも思っています。そのくらい楽しいと感じたのでした。
テキストを書いているときに感じたことの1つ目は、「自分は物事をよく知らないんだな」とワタシ自身が知らないことがたくさんあることを改めて知る機会になると言うことです。
知っているつもりだったこと、理解しているつもりだったことが、実は表面的なことしか知らなかったり、間違って理解していたり、はたまた、思い込んでいたり。簡単な例では、言葉の意味を違えて使っていた、みたいな。辞書アプリで調べてみたら「あれれ?」なんて声が漏れそうなことが何度もありまして。
研修や書籍となれば自分の範疇のコンテンツになりますから、ソフトウェアや専門のプロジェクトマネジメントあたりになるのですが、それでもやっぱり上辺だけで知ったつもりになっていたことも多数出てくる。
テキストですからウソを書くわけにはいかない。なので調べるんですね。それでまた知識が更新される。
2つ目のことは、調べる行為自体が楽しいと思うようになったことです。面倒だったんですね。調べることが。じゃあ、いいや、みたいな。
ところがテキストを書くにはウソは書けないですから、一生懸命調べないといけない。用語の意味は辞書や書籍で定義されていますから、それをいくつか調べてワタシなりに意味を確定して書く。
なぜ、複数調べるかと言うと、1つでは意味を取り違えたり誤謬したりするのが嫌だなぁと思っているからです。辞書で調べられる言葉であっても複数の意味があると、書き手として使いたい意図がありますからそれにフィットするかどうか。そんなことを考えながら辞書を引いています。
3つ目は、好き勝手に書くしかないんですが、書いていることの目的をときどき意識しないと書いている内容が目的から自然とずれてしまうのでそうならないように意識して書かないと、と思うことです。
まぁ、推敲というか、そもそも自分の書いている「文章の意味通じるの?」って言う観点から見直すわけですが。それでもついつい発想が飛躍してしまって、「理解してもらえるかなー」と不安になるのですがこれはこれで書かないとそうした反応もわかりませんから書く他ないわけで、私にできる想定する受講者になりきるために受講者と言う帽子を被って読むしかないんですね。
と、書きつつ、これって「設計書を書くときもおんなじだよなぁ」と。あぁ、システムエンジニアは設計書と言う原稿用紙に技術を綴っているのだなぁ、と。