目的や観点のないレビューの指摘には意味はない

目的・観点のない指摘には意味はありません。


と思います。ただ、レビューや事前の資料確認をする際に、ついつい自分の感覚が反応する事柄についていろいろと駄目出しをしてしまう。これは思い直さないといけないことなのだと改めて思うのです。


さて、どうして目的・観点が明らかではない指摘には意味がないのでしょうか。


考えれば、思い至ればわかるんですが、それに気づかなければどう仕様もないのですよねぇ。


いくらあなたが優秀だとしても…指摘をするあなたが頭の中で基準としていること、これから指摘対象があったらコメントをしようと思いっている基準について明文化されていないのだとしたら、それはレビューイ側には誰一人として理解することはできないのです。


であるなら、レビューや資料確認をする前に、いや、レビュー対象のアウトプットを作る前に目的を共有していればそうした意味のない指摘になってしまうことを回避することが出来るのではないでしょう。


改めて思い直せば、自分の基準を示さないことでアウトプットにコメントをつけるという行為は、単なる自己満足ではなかったのかと問われれば、実はそのとおり、と言わざるを得ないような気がしてならないのです。


そう思うと、実に間違ったやり方を積み重ねてきてしまったなぁ、と。


もし、目的や観点を持っていないなら、自己満足の指摘を防止するためには、そのアウトプットを作成した人に指摘してほしい観点を訪ねるほかないのではないかと思い至ると、それはそれで的確に得たい目的や観点が得られるわけではないのですけれど。


そうしたケースで聞いてみると、作り手によりますが着手する前に当事者が目的そのものについて話をしてイメージアップしなければ現実的に無理であるからです。


もし、指摘の目的やら観点を外した上で、欠陥を隅々まで探して指摘することはレビューアにはアウトプットをレビューするスキルがないということを暗に明示しているということなのです。


自戒として。