大器晩成のエンジニアの方がいいのかもしれない

と書くと3年寝太郎をイメージして「大器晩成のタイプだから」と何もせずに日々過ごそうとしているエンジニアを助長してしまうのではないかと思わないこともないけれど、大器晩成の解釈はどうやらそうでないようです。

 

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で引用されている 「大器晩成」の解釈について の

『晩成』ということばは、文字どおりには『できあがるのがおそい』であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということであろう。できあがってしまうと形が定まり、形が定まれば用途も限られる。それでは大器でなかろう。」

 

のところで、いつまでも技術習得と現場での実践を続けるエンジニアのイメージが浮かんできたのですが。発想がついつい同じパターンになってしまうのはそうした目線で見ているからなんでしょうけれど。

 

それでも、エンジニアの技量の観点で見れば、いつまでも完成することなく拡張し続ける限り形が定まらない=変化し続けることであって、変化し続けるからこそ用途も自在であるということなのだろうと思うのです。

 

逆に言えば、エンジニアが技量的に出来上がりと見切りをつけてたり放棄してしまうことは、自ら形を定めてしまっていることになってしまうということです。その上、形が定まってしまえば用途は限られ、用途以外では使い物になら無くなってしまう、ということです。

 

上記の大器晩成の解釈から言えば、エンジニアであることを主張するのであれば50歳になろうが60歳になろうが自らの形を作り終えることは微塵も考えず、マイペースで拡張し続ける習慣を持つものだけが真のエンジニア、ジェダイと名乗っても良いのかも。いや、ハズくて名乗らないけど。

 

大器晩成は大人物のある様を言っているからそれ自体に自分を重ねてしまうこと自体が型にはめているので変化することを止めているのではないかという疑問が湧いてこないこともないのですが。

 

であれば、エンジニアは将来像を持って自分の進む道を固定してしまうことが型にはめて考えるということで、変化し続けるのであれば方向性だけでいいのかもしれないと思ってもみたり。

 

これまでメンタルモデルや将来に実現したい自分像を作ろうと言ってきたけれど、その点で言えば、方向性が大事であることとピボットを頭の隅に入れておくことを忘れないことも大事であると言ってきたので、志向としては一致しているのかもしれないですねぇ。