情熱があるからやるのではなく、やっているのを他人が見ると情熱に見える

それだけだ。やっている方は、もう作業になっているのだから。

これを実現したいと思うことがあって、それをやり始めてみる。やり始めると、思ってもみなかったことが次から次と湧いて出てくる。

そんな湧いてくることなんてやりたいくないけれど、片付けないと今わかっているのはその面倒なことを片付けないとやりたいことにたどり着けない。だから、黙々と片付けている。

それを他人が外から眺めると一心不乱にやっているように見える状況を知っている言葉に当てはめたら、それが情熱だった。

それだけだ。

実は、ポイントはこの裏返しにある。

外から見ている他人は、やってみたいことを持ち合わせていない。

もし、やりたいことを持っていたら他人にかまっている時間なんか無い。そんな時間は全部やりたいことにつぎ込んでしまう。

周りにいる他人は、やりたいことがある人がそれを実現するために地道に始末している作業を見て、それを情熱と勘違いしているだけだ。

そう、情熱はやりたいことを持ち合わせていない他人の勘違いなのだ。

以前書いたエントリのやる気スイッチなんて存在しない、も同じことだ。終わらさなければならないことをやり始めたかどうかだけだ。

いや、それでも、始末しなければならないことを片付けるための情熱や終わらせるためのやる気スイッチが欲しいというなら、一つ、考え方を変えればいい。

それは、作業は言われて、指示されてやってはいけない。作業は、その作業をする本人が作業のゴールを設定し、作業の段取りを考え、自分で始末する。

たったこれだけで情熱ややる気スイッチと呼ぶ何かを手に入れられる。

自分でその作業を始末しないとやりたいことが手に入れられないとわかっているからである。

淡々とやりなさい、とは、つまりこうしなさい、と言っているのだ。

 

 

行動経済学の逆襲

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