酒と洋菓子と験担ぎ
実はある時期から酒を一切飲むのを辞めたといつぞやのエントリで書き記したのだが思った以上に続いている。以前なら料理を作りながらというよりは、飲みながら料理を作るまるでグラハムカーの世界の料理ショーだと内心思いながらキッチンに立っていた。
料理は半ば趣味というかストレス解消になっているので、料理すること自体に苦痛を感じることはない。どちらかと言えば、自分で料理を作れない状況になった途端、ストレスを感じるかもしれない。そういった料理と酒を以前は切っても切り離せるものではなかった。
建前上は、験担ぎということにしているのは、会合などのときにやんわりと大人風な断り方として良いのではないかと思いついたからだ。験担ぎの内容は、子持ちであればそれをいうと『それは大変ですね』などと言ってくれるくらいの理由である。実際は、塾のお迎え程度でしかないのだが、飲まなければさっさと先に帰って来れば、そそくさと迎えに行くことができる。やはり、酒を飲んでいないというところで出来ることはあるのだと思う。
ピタリと飲まなくなったから、当然のように酒屋に足を運ぶ機会もほぼ皆無になったが上の子は飲めるようになったのでよなよなエールや水曜日のネコを冷蔵庫に常備しておくためにショッピングモールで適宜買い求めて補充しておく。
少しきになるのは、数年前に出張の際に買い求めた幾本かの清酒やそのあと某所のいい感じの酒屋で買い求めた酒が冷蔵庫と段ボール箱に入ったまま瓶熟成ということで寝ている。特に季節限定だった灘の四合瓶は引っ越したくらいに手に入れていたから当家だけで20年程度は熟成していることになる。
あと、お子さんを授かるたびにタカシマヤの酒売り場で買った酒や泡盛を床下収納に鎮座させてある。それにほぼ付き合いで買ったようなブランデーなども一緒に寝ているはずである。蒸留酒が瓶熟するかは不確かだが、とにかく床下収納には酒が寝ている。
COEDOの緑色のIPA(だったような)瓶ビールも冷蔵庫で寝ているし、某カンファレンスのスポンサードしていたWeb系転職サイトのビールも寝ているはずである。
しかし、ピタリと飲んでいない。
割と飲まなくてもいけるのだと他人事のように感じている。逆にどうして毎日飲もうと思っていたのかが不思議で仕方がない。
代わりと言ってはなんだが、少し料理の幅を増やした。甘い香りが漂う。そう、菓子づくりである。要は製菓をする。これがまた、奥が深い。不思議なのは、酒を飲んてでいるとき、それも15年くらい前のときのマイブームの際にはあまり膨らまなかった菓子が嘘のように膨らむ。最近では過去に2回程度しか挑戦したことのない菓子が綺麗に一発で出来上がる。本当に嘘のようだ。
ある洋菓子が一度膨らんだ後に2/3にしぼんだことがある。変更したパラメータは2つ。気がかりなことが別に1つ。再度パラメータを調整して作っても良いが出来上がった洋菓子の処分に困るので友人の職人に相談しようかと悶々と悩む。いつも成功事例ばかり話している(実際、再開してから失敗をしていない)ので、こちらから意図した質問をしなければ、単に自己満足を押し付けているだけのようなものだ。こういうときこそ、職人の知見を求めるべきではないかと100周くらいもじもじしながら結局、切り分けで見てもらうことにした。
実はと見せたら変更したパラメータ2点ではなく、気がかりだったことを指摘された。その指摘に唸るばかりだった。そうか、そういうことか。さすが専門家である。
それを素直に聞き、再度その気がかりなことを調整してやってみると上手く膨らんだ。さすが職人である。
朝食でも夕食でも製菓でも、作るのは出来ることを増やすし、出来栄えを研鑽することもできる。パラメータを変え、お手本とする状態に近づかせる試みも繰り返せる。何より自分が外で食べたり、グルメ本で美味しいと思ったものは再現しようと思う。レシピの模倣であるが、必要な材料を揃え、手順を困らない程度に確認し(確認漏れで無駄にしたことがあるが)、想像の延長線上で再現できるととても嬉しい。なぜなら、できることが増えるからである。
まるで適用技術や方法論を覚え、実践投入しているようなものだ。何より、30分後、1時間後に成果を確認できることがいい体験を生んでいる。
こうした体験を増やせているのは、酒を棚に上げて飲んでいないからである。時間を作れる。TVのながら見を減らせば時間は作れるし、酒も棚上げすると飲むと止まっていた思考がそれなりに動くので読書やら調べものが進むのだ。
飲むならぜひ、美味しい酒を飲んで欲しい。ただ、もう自分はすばらくこっち側で厄介になろうと思う。