努力を評価して欲しいエンジニアは自分の将来像を持っていない

プロジェクトチームと仕事をするとき、エレガントである必要は全くないし、大変な思いまでしてやらなくていいと何度か言う。エレガントである必要は全くないと言うのは、仕事では過剰な金メッキはいらないと言い換えることもできる。タスクを完了したとき、アウトプットした成果に備わっているはずの性質を確認できればそれで十分である。求められない性質を付加するのは過剰であり、不要なものである。これは初版の1996年版のPMBOKを勉強していた頃に知ったことだ。

もう1つの大変な思いまでしてやらなくていいと言うのは、求められる結果、タスクを完了するまでのプロセスで精神的でも身体的でも負担になるような、成果に見合わない労力は掛けないでいい、と言う意味である。

もしかしたら、日本人の成果に関係しないことに時間をかけたり、コストをかけたりするのは、努力すればいい、時間を掛ければいい的な、外から見やすい形で振舞うことを強要する文化的なものがあるからかもしれない。

成果を得るために必要なコストは掛けなければならない。それを履き違えて、享受する側に見える形でメリットの多さを要求しているのある。

大変バカっぽい。

そういったことを要求する人たちは、見た目を要求する。それはもう、形式であり道(tao)の世界だ。形式を要求するから中身がなくても良い。要領の良い、ずる賢い相手には騙される。

エンジニアの評価でも努力したことを主張するメンバが一定の割合でいる。目標設定の際に、何度も成果しか評価しないと直接伝えても、である。

これは努力すれば評価されるという後天的に学習して身につけた性質であるから、いくら伝えたとしても、早々に受け入れられるようなものではない。それでも、評価軸は買えない。

逆に、そうした努力をした、認めて欲しいと言うメンバは、その努力の途中に何かしらの小さな成果がある。努力を認めて欲しいメンバは、設定した目標しか視界に入らず、目の前にある小さな成果は視界に入らない。

だからその小さな成果はあなたの成果であることを伝える。自分ならそれを主張するけど、と。

自分なら、目標に対して得られた成果、経験、上手くいかない方法全てが成果であり、目標達成に足らないのは、目標が高過ぎたからであり、その残りは継続して取り組むものだと言うだろう。

そう言わない、努力を主張している人は、過去を向いている。使ってしまった自分のリソースを評価しろといっているに過ぎない。サンクコストは評価対象ではない。成果だけが対象である。そういった傾向のあるエンジニアは、将来のいつ役に立つかわからないけど、楽しそうな技術への自己投資とか将来の自分像を持っていない共通項があるのは如何してなんだろうか。

 

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)