プロダクトの発想とかバカっぽいアイデアを言える環境

事業を20年以上続けている知己がいる。頻繁に会う機会を設けていて、会うたびに先方の事業の話をあれこれと聞いている。

SIerなどで新規事業部門を鳴物入りで立ち上げるも上手くいかないとか、スタートアップでプロダクトが思ったように立ち上がらないケースを耳にする度に、事業を続けていると言うだけで、すごいことだと思う。

先だってもその友人と話しているときに、新商品のアイデアの思いつく状況を話始めた。話している内容自体は、こんなタイミングで思いついたんだよ、程度のことなのだが、切り口を変えて捉えると、そのぐらいリソースを突っ込んでないとできないものなのだと改めて感心する。

PdM(プロダクトマネージャ)は、それこそ寝ていてもプロダクトのことを考えていて、如何にバリューを持たせるかしか興味がない。四十六時間中プロダクトのことを考えているとき、以前何かで見聞きしたものが何かのきっかけで結びつく。

プロダクトの発想は知っているいくつかの組み合わせだ。それもそんな組み合わせはあり得ないと思うようなピンポイントの所にオポチュニティは隠れている。

その組み合わせについても友人は語っていた。変な組み合わせ、それを探すために何でも組み合わせる。

人は知識を持っているから、セオリーで物事を考える。無意識に常識やルールに囚われる。プロダクトの発想はそれじゃない、と言っているのだ。

友人はデザインはからっきしダメである。本人がそう言っているのだから、そうなのだろう。そこは仲間のデザイン担当が受け持つ。

ただ、そこは分業しない。からっきしデザインがダメだと言っておきかながら、これはどうかとひどいデザインを見せる(実際、見せられた)。

デザイン担当をしている方は、思いっきり事業主である友人のアイデアをdisる。ただdisるだけではなく、そのdisったアイデアをベースに目標とする品質レベルを高い位置で目指してデザインする。言い換えると捨てる前提でデザインしない。一発で決めるつもりでデザインしていると主張していた。

そのあたりの念持はイズムに通ずるところがあり、とても共感できる。

ただ、興味深いのは、友人のように自分のデザインはからっきしダメだと言っているにも関わらず、臆することもなく自分のアイデアを形に、言葉だけではなくものとして見せられる場と関係を作れていると言うところだ。

人数的なもの、少人数というのもあるのかもしれない。自分(友人)やデザイン担当がやらなければ他にやる人はないというものあるのかもしれない。

これを当事者意識なんて表現するのも、また違うと感じている。やらなければ先細りして事業は衰退してしまうと思っているのだろう。

それはさておき、形にして見せて、あーだ、こーだと会話できるのは心理的安全性云々よりもっと先の目指すところなのかもしれない。