無駄に気付かない人は余裕を削る


何でそれ止められないの?
どの組織にも規則やルールが明文化されていて、それは定期的若しくは不定期的に更新されるものだけれど、大抵、繕ったように直さないところだけしか直さない。

直す人も楽したいからね。

規則やルールは大抵文書体系があって、一つを直すを別のところに波及することがままあるから、その場限りの手当てをし続けると、ハウルの城状態になってしまう。

これもよくある風景であーりませんか?

規則を見直す契機は、大概、その規則のオーナではなくて、外部からが多い。その規則がISOならISO自体の改定が上げられるし、法などの規制に沿った改定などが上げられる。

規則のオーナは一度制定したら、その規則の改定の面倒さを知っているから場当たり的な改定を繰り返すことになり、必要なときにしか読まない読者は、その都度、“新鮮”な気持ちで接し、アレコレとアラが見えてくる。
だから、都度、尋ねる。


「なんでこの無駄な作業止めないの?」


無駄と余裕
無駄とは、


「何も誰かがそれをしたとしても、何の役にも立たないことや利ががないこと」


であって、余裕とは違う。余裕は、


「必要分以上に余分があったり、限度までには余りがあること。」


ということだから、やっぱり無駄とは違う。

人は一つひとつの段取りを積み重ねて作業をする。それが法や組織の規則に縛られるなら、その業務の件数は少なくないだろうから、それに掛かる作業の段取りは少ないほうが良い。

そう考えたら、規則やルールで決められて、そこから逸脱できないとするなら、その不要な作業を減らすことを考えるのは極自然な流れだろう。

ところが、継ぎはぎを重ねる人の頭の中には、無駄な作業はその規則やルールを強いる人たちに余分なコストを強いているという感覚がないから、一向に、且つ、真剣に減らそうとしない。

そこには、自分の作業の時間の中で、できることを最優先に判断しているのであって、本来、自分に課せられた、最小限の作業で規則やルールで目的を達するということを蔑ろにしているといわざる得ない。

その無理な仕事の結果は、その規則やルールに従うほかの全員の余裕を削る。それは、日々の中の限られた時間をジワジワと侵食し、気付かれ難いものだ。なぜなら、それが規則やルール自体であって、根本を疑う人が少ないからだ。

そう思うからこそ、いつも、五月蝿く、笑顔でお願いするのだ。

「それは止められませんか。」