それでもやはり、人生の大半を労働のために費やすのなら


20代の頃、働かなくていいなら働きたくはないと思っていました。有給休暇もそれなりに消化していました。そう、あの頃は。ところが、今は違う。夏休みもこれから来る年末年始も申請すれば何もクレームもつかずに休みを取ることを承認してもらえるだろうに。
さすがに年末年始は、クリスマスの片付け、大掃除、年始の準備があるのでやることが多いが夏休みなんて何しようか途方にくれてしまう。好きな読書は日頃から好き勝手に三昧をしているし、ゲームだって今ならモンハンをチマチマやっているし。家族とどこかにと言っても、部活があって中々日程も合わないし。それより、通勤は面倒だけれど、仕事場に行っている方が楽と言えバ楽だし。

「じゃあ仕事してれば、社畜」と言われそうだけど、まぁ、そうだね。仕事好きだ。人と関わりあうことが楽しい。もちろん、

「仕事だから色々と心の中で思うことはあるのだよ。」(緑間風に)


でも、まぁ、仕事だからね。ツマラン仕事もあれば好みに合う仕事もないわけじゃない。同じように周りの人だって「なんでこんなことやっているのかー」って思いながらやってそうな仕事もある。嬉々としてやっている人もいる。

あの頃、ワタシは仕事が好きじゃなかったのにね。


“好きなことなんて簡単には見つからない”
獏として、システムエンジニアになろうと決めて、まんまと潜り込んでシステムエンジニアの肩書きの名刺を貰って、似非システムエンジニアになってみたら、なんか違うんだな。思っていたことと。最初に、あまりにも卒業した学部と配属先の業種が違いすぎるよと絶句するような仕事に振られたという理由もあるのだが。それでも、成りたくてなったシステムエンジニアの仕事の現実と脳内イメージに違和感を持ったのも事実なのだし。

でも、成ろうとして選んだシステムエンジニアをたかが数ヶ月で判断していいのか、と。当時、そんな言い回しはなかったけれど、会社がブラックと言うわけでもなかったし、違和感を感じるのは完全に自分自身の問題なので、自分にハードルを設けた。

“石の上にも三年って言うじゃないか。三年続けてから、また、考えよう”


物事の判断は、稚拙にしてもいけないし、遅すぎてもいけない。ただ、今は判断する時期じゃなかったことは確かだったようだ。
確か、仕事の都合で4-5年目まで、仕事そのものについて「あぁ、これ面白い」と思った記憶がない。幸いにも周りの人たちには恵まれていたから、仕事の相談もヘルプも雑談も飲み会も職場旅行もコミュニケーションが取れていた。

ところが、4-5年目くらいの仕事が“大変だったのに楽しかった”と思い出せるのが不思議でならない。どこかでブレークスルーしたのだろうか。今、思い起こせば、あのタイミングで上流設計をいきなり任されたのがそうだったのかもしれない。
#いやー良く任せたよなー。

顧客との遣り取りが今で言うdisられたりしながらも、プロジェクトとしては大成功だったし、担当したサブシステムは最終的にいいものになったので、disられた記憶も好意的に受け取れ記憶を上書きしているのかもしれない。まぁ、そんなことは大した話じゃない。

その後、紆余曲折を経て、プロジェクトマネージャに成って、好きなようにプロジェクトを廻してきたわけだけど、自分で選んだプロジェクトマネージャだって一つひとつの仕事は、面倒で気持ちが進まないものもあれば、自然と頬を緩ませながら頭を突っ込んでいく仕事の混在なのだ。

ものづくりをはじめたシステムエンジニアの頃は仕事なんて楽しくないものだと思っていたのに、プロジェクトマネージャを意識しだして仕事とその準備を始めた頃、仕事なんてそれほど悪いものじゃなよ、と思えるようになったのは、何を見つけられたからなのだろう。


目の前の仕事に興味を持って
“プロジェクトマネージャを意識しだして仕事とその準備を始めた頃”が仕事が好きになったブレークスルーなのではないか、もし違うとしても構わない。
#そういうことにしておこう。プロジェクトマネージャに仮説を立てることは大事なことだ。

プロジェクトマネージャを“意識”しだしてが、キッカケだろうと思う。若しかしたら、いままでモノクロに見えていた景色が総天然色になった瞬間なのかもしれない。

気になる娘がいると自然に目が追うように、プロジェクトマネージャを“意識”しだしたことで、自分で自分の気をひいたのではないか、と。

プロジェクトマネージャなら、この問題をどう捉えるか。
プロジェクトマネージャなら、次のアクションをどう取るか。
プロジェクトマネージャとして、この作業を標準化して、どれだけ品質を確保するか。
プロジェクトマネージャとしてこの品質を確保しつつ、無駄な作業を減らせないか。
プロジェクトマネージャとしてコストが削減のために、この作業を省くことができるか。


意識をすることで仕事への好き嫌いの感情が変わる。


“得意”になれば、なぜか周りが必要としてくれる
なぜか、不思議とちょっとした仕事でも意識を持って仕事をし始めると、周りの人が関心を今まで以上に持ってくれたような気がしてならない。

それは、今ふりかえれば分かることで、意識をすることで、その仕事の周りの仕事が視界に入るようになり、意識をし始めた仕事の段取りを気にし始め、周りの人たちと今まで以上にかかわりを“自ら”持つからではなかったか。

多分、そうなのだろう。好意的に仕事に取り組み、その仕事と関わる人たちに気を配るように見えれば、周りの人たちは同じように扱ってくれるからだろう。意識をすることで、その仕事への理解が進み、それを重ねることで習熟度が深まり、処理スピードが速くなる。それは自分にとっても自信がつく瞬間だ。そして、自信を持って仕事をしていれば、周りも関心を寄せ、仕事の結果が出るようになるから、認めてもらえるようになる。

他人に認めてもらえるということは、人が持つ承認要求が満たされ、自分の居場所を得られる。それは必要とされることであり、必要とされることこそ、好きな仕事をやっていると言うことにしてもよいのではないか。