自分がどんな大人になるかなんて想像もつかなかったけれどそれほど悪いものでもなかった


社会人になって、初めて配属された部署はたしか10人くらいのチームで、それも2箇所に分散していたので先輩二人の中に新人のワタシがポツンと投げ込まれたような状況だった。その二人の先輩も10年選手、5年選手くらいだったから、30を少し超えたくらいの先輩と30手前くらいの先輩で、二十歳そこそこの自分にとって30歳なんて遠くの話だったし現実に目の前に先輩として存在していても実感として“30歳”という年齢を推し量ることはできなかった。


ドブ鼠色したスーツを着て
テレビではサラリーマンのことを“ドブ鼠色したスーツを着て毎日仕事に行く”ような揶揄をしていたけれど、それが一体なぜそんな言われ方をしないといけないのかさっぱり理解できなかった。そのころは、ダブルのスーツが流行っていたり、ワタシ自身もスーツについて何も知らなかったのでなんとなく店頭にあるものを高校のときからの友達だったヤツが勤めていた店で買っていた。


今思えば、サラリーマンのことを“ドブ鼠色したスーツを着て毎日仕事に行く”ような揶揄をされても何とも思わなかったのは、ワタシはそれに当てはまりそうなスーツをそれほど持っていなかったから、その揶揄をされている当事者ではないと自分を安全なところに置いていたからかもしれない。


ただ日々をやり過ごすばかりで、今のような“まなび”の気持ちはなくて、稼いだ分だけ時間とともに消費するだけが日常だった。だから、自分がどんな大人になるかなんて、ましてやどんな大人になろうかなんて思いを馳せることもしなかった。


だから仕事も今のように楽しいわけではなく、何かにつけて休む口実を考えていたのかもしれない。確かに仕事場に行けば、話す先輩もいたけれど、自分の居場所がそこにあると思っていたかと問われれば、そのときのワタシの存在価値から言えば、居場所はなかったのかもしれない。


子どもが生まれたので本気だす
ワタシがどのような大人になりたいか、真面目に考えるようになったのは25歳を過ぎたときの上司との会話の記憶が脳裏にこびりつたまま幸いにも剥がれることなく残っていたからかもしれない。それはとても幸運なことだと思う。


子どもが生まれて、毎日大きくなるとやっぱり今のままでいいのかと思うようになった。今のまま当時60歳の定年を迎えるときの生活感を想像したらゾッとしたのだ。やっていけるだろうかって。やっていけるのだろうけれど、それはとても心もとない土台の上での話になるのだ。ならどうしたいか。どういった大人になれば解決するのか、って。


幸いにも自分の属する組織は結果を出せばプラスに評価してくれたのだ。自分から何もせず、降ってきた仕事をやり過ごすだけではプラスもマイナスもないくらいで。マネージャからなんらか育成しようと目を付けられているならそれでもプラスに働くだろうけれど、ワタシはそうではなかった。


だから、動き出すことにしたのだろう。何かを思ってガツガツと動くようになった。その何かはもう書いてしまったが、ゾッとしたアレである。それから勉強の仕方を大人になってある意味本当に会得したし、仕事も結果が出るようにやり倒した。幸いに、コードを書くような仕事ではなく、今どきで言うプロジェクトファシリテーションのようなスキルを必要とする仕事をしているときだったので、結果が伴っていたことはとってもツイていたかもしれない。


大人になってもそれほど大したことはなかった
二十歳そこそこの頃、目の前にしても実感をつかむことが出来なかった30代もあっという間に半ばを過ぎたとき、やっと自分がどんな大人になれそうかと思った。でも、人生は山谷があるようだ。運は一人ひとり平等で、なんていう人もいるけれど、ワタシは蛇口を捻れば捻っただけ運が出てくると思っている。その運を出すのは自分の努力次第だ。努力もその運がでてくるから努力であって、何も出てこないのは努力と言わないと思っている。蛇口が出てくるように仕立てなければならないのだ。


自分で自分のしたことが期待する結果に結び付くように仕掛けることは大切なことだ。いつも同じような作業をしているなら、その同じ結果になるとしてもどうやったらその結果で自分の期待する結末になるか工夫しないといけないのだ。そう思えるから、今いる人生が谷であっても自分で登り道に変えることが出来るんだと思えてくる。それは、自分で自分の仕事を観照できていることであって、上司の期待に自分の主観で応えられる仕組みを作れるということだ。


なんか偉そうなことを書いているけれど、大人になってもそれほど大したことはなかった。多分、多くの大人はそう思っている。体はもう棺桶の中に胸まで浸かっているくらいとっぷりと沈んでいるけれど、気持ちは二十歳そこそこのときと変わらない一面が残っているかだろう。その変わらない一面の気持ちに、そのころならやらなかった“まなび”の気持ちがまざっているだけなのだ。


大人になるってそれほど悪いことじゃない
ひとつ大人になって、“まなび”の気持ちを持てるようになって良かったことは、何があっても動じない、−いや、騒ぎはするけれど−、思考が止まるようなことはないということだ。自分が歳をとればとっただけ、周りだって歳を取るのだ。だから、今になっても初めて経験することが山ほどある。
それをいちいち思考停止していたらますますゾッとするだけだ。


ワタシの意思で思考して、ワタシの価値で物事を判断する。その過程もシミュレーションして、成り行きに任せない。それを学んだだけでも大人になることはそれほど悪くないな、って思う。