日常の掃除でエンジニアに欠かすことのできない“捨てる”判断を養う


先週に続いて、久しぶりの土曜の休日を朝寝坊して、なんてそんなことはできない。だって、休みの日こそ早起きして休日をフルに堪能したいではないか。なんて思っているのでいつものようにいつもの時間の目覚ましで起きるワタシ。


とは言え、どこかに出かけるというわけでもなく、専ら自分が勝手に担当だよ、と思っている家事の掃除場所を掃除するのである。他に、庭木の手入れとか車の洗車とかしたいけれど、日々目に触れる屋内を何とかしたいのだ。家族がいれば家の中なんて思うように整理整頓なんかされてやしないものなのだ。そんなものなのだからこそ、好き勝手に掃除も整理整頓もするのだ。


掃除とは塵や埃を掃くだけではダメで、いや、掃くことはそれ自体必要なのだけれど、とっちらかった部屋の中の荷物をあるべきとことに戻したり、同じようなものは取りまとめたりしておかないといけない。そうは言っても、日々の生活を過ごしていれば、貰い物や自分で買ったものやノベルティやらで細々としたものがそれこそチリツモで雑多に溜まるのである。


そうしたものは、やっぱり、定期的に棚卸をして、身の回りをリセットしないといけない。引っ越してきたとき、あれだけ広々としていた部屋という部屋は今ではすっかり足の踏み場もないくらいに荷物が増えてしまった。


いつだかそうしたものを見たときに、これは自分で溜めこんだものなのだから、自分で必要不必要を判断して少し身軽にならないといけないとではないかと思いあたったのである。


プロジェクトの上流設計のシステムデザインを眺めて、こんがらがっているインタフェースやサラマンダーのような機能分界をみたとき、「(このシステムエンジニアなのかアーキテクトなのか知らないが、こいつはダメだ…)」とため息をつくのと同じなのではないかと、雑然とする部屋を見て思うのだ。


煩悩と欲望と可愛いは正義という雑念の塊の自分が言うと自分で自分にエッジの効いたナイフを剥けているだけにすぎないのだけれど、それでもそうしたことの価値観の大切さについてはわかっているつもりだ。


そして、その大切な価値観に憧れるのではなく、それに近づこうとするのがワタシなのだ。そう思う事にしている。思い行動するのはタダだからだ。


だから、掃除をして、モノを整理するときに、片づけをするのである。それはただ、どこかの引き出しやクローゼットに見えなくするのではない。それをしてはいけない。それでは可視化を逆行するのである。引き出しやクローゼットに収納するのは可視化のためにするのである。それをそこに投げ込んでおくだけ、ではムダな作業をしているのである。それならしない方がその無駄な作業をしないだけマシだ。


片付けでは、自分自身の判断基準を持ってある行為を一つのモノを動かすたびにしなければならない。


それは、自分の価値判断基準で、パージするという行為である。それが今、これからも必要なものなのか、それともそれを持っていることで貴重なスペースの維持にコストを費やしてしまうという負の財産なのか、をである。自分が持つ多面的な価値に対する基準を持って、少ない情報と不確かな確率のもとに将来も必要なものなのか、将来にわたって保持することでただ時間とスペースばかりを消費して本来維持されるべきものをそのスペースに置く機会を失うのではないか、などを勘案しつつ決めるのである。


自分が所有するモノをパージするという行為は、その判断を誤れば自分自身に価値の喪失として痛みを直接伴う。だから、人は、その痛みを回避するために溜め込むのである。その自分自身で痛みを感じられる貴重な体験を得られるなら、それは日々実行されるべきである。そしてその直接痛みを伴う経験から、顧客のシステムで必要なもの、不要なものを分別することを実践すべきなのだ。あなたがエンジニアなら、日々、実生活で自分の基準を持って少ない情報の不確かな将来の自分の性癖^H^H思考を見切ってパージするという片づけをしなければならないのである。