一人で“ふりかえり”をすることの価値はどこにあるか


丁度、プロジェクトの合間に経緯をプレゼンする機会があってそのスライドの構成を考えていたんだけれど、意外と覚えていないもので「そんなもんなんだなぁ。」って思った。


だって、ものすごく忙しかった月が何カ月も続いたいのに、ですよ。ただ、断片的には覚えていたのでとっても荒いプロットくらいには落とし込めるんだけれど、一つレベルを下げると途端にいくつかあったトラブルの順序さえ、思い出せない。


多分、自分にだと思うんだけれど、忙しいときに少し、自分に対して腹を立てていたんじゃないか、って思える時期があるんだ。なぜそんなことを思ったかと言えば、カレンダアプリの予定の中に、幾日か短いけれど心情を書いていたのを見つけたから。心情というか、ちょっと荒い言葉での決意表明的なもの。「こんな状態なら、○○に変えてしまおう。」のような風に。


こうした、ある瞬間の心情的なことって、忘れてしまうものなんだね。それを何時までも覚えておく必要も覚えておく価値もないけれど、“なぜ、そう思ったか”がわかるような言葉使いが残っているだけで、当時の情景がパッと脳内に広がるような感じがするのは不思議な感覚だ。


プレゼンのために経緯をまとめるためには、過去をふかえりしないと資材が集まらないわけで、資材の集まり具合が悪ければその不足を補完するために曖昧な記憶の中から創作をしなければならなくなってしまうんだ。ウソではなくても創作が混入することで、プレゼンの筋書きをする作者自身にとって、それは事実をべーすとしたフィクションになってしまうような気がする。


それを良しとするかどうかは、その経緯をまとめたスライドの目的に依るけれど。


それでも、ある程度、ワタシが作るスライドには“事実”をベースとしたノンフィクションにしておきたい。


一人で“ふりかえり”をすることで、佳境だった当時に何をどう感じていたか、何に対して違和感を覚え、何に対して不満で、何を変えようとしていたか、がある程度ハッキリと手に取るようにわかると、その後のプロジェクトチームの編成や仕事のプロセスなどの変化の理由も遡及して辿れそうな気がする。


仕事には正しいかとか、悪いとかは、そんな判断基準はないと思っている。答えがあるならそれはテストと同じだもの。同じような繰り返しの仕事をしているようにおもえても、毎回、条件の違う環境下でそれがなされているのだと認知しなければならない。


良し悪しは、ルールの中でふるまわれているのであれば、それはすべて良しなのであって、それが期待する結果を得られないのなら、そのルールを変えればいいだけだ。


自分が自分自身を縛るルールとして形に現れたものがふるまいなんだと思う。だから、ひとりで“ふりかえり”をするときも、正しいことをした、とか、これが悪かった、と言った言い回しをする必要はないんだ。


何を期待したか、どうふるまったか、それで何を得たか。


そのふるまいの較差を減らせるものかどうかを見極め、較差を減らすための次のアクションにつなげる。ただそれだけなのだ。それがひとりで“ふりかえり”をする価値、なんだと思っている。