何を失えばワタシは社畜でなくなるのか


こんなテーマをわざわざ成人式の日に書かくてもいいじゃない、なんて思ったりもしたけれど思いついちゃったんだからしょうがないんです。はい。



面倒な仕事と面倒でない仕事
ううん、どうなんだろう。面白いと思う事もあるけれど、面倒くさい方が多いかなぁ、プロジェクトのメンバが増えれば、参画したその日から作業をできるように事務手続きが必要だし、作業するためには諸々の研修を受講しないとデータアクセスも許可されないし。ましてや中途参画であれば、既知の情報を知らないから情報のキャッチアップから始められるようにリポジトリアブストもガイドをしなければならないし。


往々にして“面倒くさい”と思う仕事は、出来上がっている仕事なんだなぁ。作業のしくみ、運用ルールがある程度決まって、そのとおりに作業がフローしている状態なんですよ。あとは、日程の調整とかも面倒くさいと思ってしまうかな。特に、相手が同じ場所で働いておらず、面識も少ない人とは。傍にいれば、歩いて行って直接話してしまうのはせっかちだからなのかな。面識があれば電話で都合を訊いて会う段取を付けちゃうから平気なんだけれど。


逆に、面倒くさいとは“思わない”仕事は、面倒くさい状態になるその前(わかりにくい!)か、トラブルなどの無の状態から段取りをつけるような仕事がどうやらワタシは好きみたい。つまり、作業のしくみを作ったり、段取りを決めたり、運用ルールを決めたりすることは楽しい。自然とアドレナリンが出ているかもしれない。


社畜は仕事を選り好みしない
だからと言って、好きな仕事ばかりしているわけでもないんですね、当たり前ですが。で、それも面倒な仕事の方が成分としては多い。コレも当たり前。仕事にかかわる多くの格言めいたことや迷言なことは、この面倒くさいくて繰り返す仕事についてどう接すればいいかを言っていることが多いです。例えば、

“楽しいと思う仕事に就けることはありえない。仕事を楽しくするのだ。”


のような系の言葉。ワタシが面倒だよと思うような繰り返しの仕事もITならでは、維持管理と括られる仕事が全体の70%から80%を締めている現状を鑑みれば、その多くを占める仕事との接し方を工夫した方が何倍も“シアワセ”なんだというのも、又、真理なのですよ。


だから、社畜と呼ばれるようなエンジニアはたとえ面倒な仕事でも仕事を楽しもうとするので面倒なんて言っていても内心では自分独自の楽しみ方でどう楽しむかを考えているんですね。アホなワタシ。


つまり、社畜にはつける薬がない、じゃなくて、面倒な仕事だろうがそうでなかろうが、仕事を選り好みすることはなくて目の前にぶら下がれば素材を見た途端どう料理しようと考える料理人のような性を持っているどうしようもない輩なのではないか、なんて諦め顔でキメるんですよ。
#何をだ?


消化するコンテンツのない時間は毒でしかない
いや、社畜だなんて思ってもいないですけど。ワタシ社畜ですかねぇ?まぁ誰がそう言おうと結構なんですが、自分でも欲しい称号ではないのでどうでもいいです。


でもアレですねぇ。社畜かどうかは棚に上げて、仕事がなくなっちゃうと時間を弄んじゃうかもしれないですねぇ。弄ぶと言うより遊ばれちゃうかも。そういう意味では、時間がありすぎるのは毒ですねぇ。なぜ毒なのかと言えば、飽きっぽいからです。長く続けられない。チマチマと次から次ととっかえひっかえやるのが好き。本を読むのもそう。だからか、仕事を小さくバラして小さなタスクに分解して片付けるのが好きなのが。あーなるほど。変に納得した。


そう言う意味で、小さなタスクをこなすのが好き、と言う意味で、であれば、その小さなタスクを補給できる限り同じように時間を毒にしないで消化できるのかもしれない。でもそれって、結局、毒を小さなタスクに変換して作業と言う仕事にしちゃっうんでしょうねぇ。


え?それって社畜???