豆腐屋さんのようにいつも同じモノを作り出せるを持っている人をといいます


普通の定常業務でもプロジェクトのタスクでもときどき「これは良く出来ているね!!」っていうアウトプットに出会うときがあるんですよ。口に出してまで言うかどうかは別にして、良いときは出来る限り口にして褒めるようにしているけれど……、

「(へー。いいセンスしているなぁ……。)」
とか、
「これを軸にしてまとめたのが解り易くて良い!」
とか、


みたいな感想を持つとき、です。


でね、人は業が深いというか、欲が深いというか、一度良いものを見てしまうと期待する基準の度合いが変わっちゃうんですよ。良い方に。良い方がデフォルトになっちゃう。暫くして、そのあとのアウトプットを見ると

「(アレ?前は良かったじゃん?なんで今回は昔にも戻っちゃったの?)」


と思っちゃう。まぁ、先方から見れば、「何勝手に期待値挙げているの?」なんでしょうけど。


プロフェッショナルは8割同じ品質を出す
だいぶ昔に、「料理人を名乗るなら、8割は同じ味付けをする。」と、どこかで聞いたことがあります。8割のアベレージでアウトプットをするから商売できるのだと。そうでなければ素人料理、家庭料理、ママンの味なのだと。


先のたまたま出来の良かったアウトプットが一度きりなら、それはまぐれなんでしょうか。アウトプットを受け取る人や顧客から見ればアウトプットする人はプロフェッショナルなのだと思っているわけですが、そうした期待値は間違っているのでしょうか。

「だってさ。実際はその都度様々なスキルを組み合わせてアウトプットするジャン?こっちだって気持ちで左右しちゃうし、ばらつくの当たり前じゃん?」


と割り切っていいんでしょうか。対価を払っている顧客ならどう受け取るのでしょうか。そこまで気にしなくていいのでしょうか。


良いものを作り出すしくみが大切なのです
今の専門化した職業を担うなら、専門家としての振る舞いと専門家として見合うアウトプットを渡さなければならないわけで。


もし、自分自身が今所属する組織の一員ではなくて、「自分の名字+商店」だとしたとき、今の対価を受け取れるだけの等価の価値を持つアウトプットを出せているでしょうか。


豆腐屋さんの豆腐が毎回アウトプットである絹ごし豆腐の形がバラバラだったり、角が崩れていたり、ましてや味がバラついていたりしたらわざわざお金を払って買うでしょうか。意外と、1丁150円とか少額の金銭の方が普通の人は身近なので身銭を切る金額と受け取るモノを厳しく見るものです。


ところが桁が増えて身近でなくなっていくたびに、だんだんと対価とモノが等価であるかどうかの判別をしなくなってしまう。次第に支払う金額の多さで受け取るモノの品質を担保しようとするんですね。不思議と。


もう一つ、自分に対して甘い評価をする人や自分のふるまった結果を評価しない人が多いんです。だから、所作した後を振り返り、たった後を一瞥もしないで立ち去ってしまう。


そうした人たちが作るものを個人として買うかどうか。逆に、作ったモノに対して作りたいと思って作ったものがその通りにできているか確かめもしない人が個人商店として受けれられるのか、を思うと、ワタシは「それはないよなー。」と思うんですよ。


プロフェッショナルなら8割のアベレージで同等の出来上がり具合のアウトプットを出す。それって、そうできるように自分で訓練しているからで、それは自分が同じ品質のアウトプットを出せるようなしくみを作っているから、なんではないか、と思うのです。


仕事なら、良いものを作れるだけではダメで、毎回同じような品質で作り続けられるようなしくみ作りをできるように成らないといけないのです。それが出来て初めて一人前なのですよ。